ニュートンと原子論と (1)
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ケプラーの法則から万有引力の法則を導く
ケプラーの法則
ティコ・ブラーエの観測記録をもとにヨハネス・ケプラーが行った分析によれば,火星の公転軌道は楕円でした。ケプラーは,自らの分析にもとづいて,惑星の公転について次の三法則を提唱しました(第一,第二法則は『新天文学』で 1609 年に,第三法則は『世界の調和』で 1619 年に発表)。
- 第一法則: 惑星の軌道は楕円であり,そのふたつの焦点の一方に太陽がある。
- 第二法則: 惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に掃く面積は一定である。
- 第三法則: 惑星の公転周期の 2 乗は,軌道の長半径の 3 乗に比例する。
これらの法則は,アイザック・ニュートンによる万有引力の法則にとって,不可欠の根拠です。それらの関係を見るために,わたしたちはまず,ケプラーの法則を前提として万有引力の法則を導きましょう。
ケプラーの法則に従って運動する惑星の加速度は太陽のほうを向いている
-座標平面上の楕円 を -軸方向に だけ平行移動して得られる楕円
が,惑星の公転軌道であるとします。そのとき,原点 は,その楕円の焦点のひとつです。ケプラーの第一法則に従って,そこに太陽があるとします。
惑星が点 にあるとすると,, は媒介変数 でそれぞれ次のように表されます。
太陽と惑星との距離を とすると,
点 における軌道の接線は,次のように表されます。
この接線と原点 との距離を とすると,
惑星の速度ベクトルを とすると,
したがって,
は媒介変数であり, は正でも負でもかまいません。ここでは とすると,
ケプラーの第二法則は, が時間によらない定数であると主張しています。そこで () とすると,
この式の両辺を について微分すると,
惑星の加速度ベクトルを とすると,
したがって,
ですから,惑星の加速度ベクトル は, に平行であり,かつ, から のほうを向いています。つまり,惑星の加速度 は,太陽のほうを向いています。
ケプラーの法則に従って運動する惑星の加速度の大きさは太陽との距離の二乗に反比例する
また, ですから,
ですから,
はひとつの惑星にとって定数ですから,その惑星の加速度の大きさ は,惑星と太陽との距離 の逆二乗に比例します。
ケプラーの第三法則は,太陽系の各々の惑星の公転周期の 2 乗とその軌道の長半径の 3 乗とが,比例すると主張しています。各々の惑星の公転周期は,その公転軌道で囲まれた面積 をその面積速度 でわった商です。いま であり,また,楕円の長半径は ですから,比例定数を とすると,ケプラーの第三法則は次のように表されます。
したがって,
は太陽系のどの惑星にとっても等しい定数ですから,惑星の加速度の大きさ は,軌道の大きさや形によらず,また,面積速度の大きさにもよらず,ただ距離 の逆二乗に比例します。
ケプラーの法則に運動方程式および作用反作用の法則を適用すると万有引力の法則が導かれる
ここで,ニュートンの運動法則を既知としましょう。惑星を楕円軌道に沿って運動させる力を とし,惑星の質量を とすると, が成立します。つまり,その力 の方向は,惑星と太陽とを通る直線に沿っていて,かつ,その向きは,惑星から太陽のほうを向いています。さらに,その力の大きさ は,惑星の加速度の大きさ に比例するとともに,惑星の質量 にも比例します。
惑星を楕円軌道に沿って運動させる力の作用主がなんであるか,いまの段階でわたしたちは知りませんが,かりにそれが太陽であるとしましょう。つまり,太陽が惑星に力 をおよぼしていると仮定しましょう。すると,作用反作用の法則によって,地球が太陽に力 をおよぼしています。その力によって起こされる太陽の運動の加速度を として,太陽の質量を とすると, が成立します。つまり,その力の大きさ は,太陽の質量 に比例します。
以上をまとめると,惑星を楕円軌道に沿って運動させる力の大きさ は,太陽の質量 に比例し,その惑星の質量 に比例し,その惑星と太陽との距離 の逆二乗に比例します。その比例定数を とすると,
が成立します。これが,万有引力の法則です。
「質量」や「力」は必要だったか
ケプラーの法則から惑星の加速度の方向および大きさを求める計算の煩雑さに比べると,その加速度から万有引力の法則を導く手順はあっさりとしています。ニュートンは,その部分の議論を簡単にするために,『自然哲学の数学的諸原理』(1687 年)の冒頭に運動の第二法則(運動方程式)および第三法則(作用反作用の法則)を置いたと考えられます。わたしたちはさきほど,座標と方程式と微分とベクトルとを用いて惑星の加速度を導きましたが,一方ニュートン自身は,そのような道具に頼らず,ユークリッド幾何学の手順で同じ結論を導きました。気の遠くなる方法です。もしわたしたちがニュートンの天才を賛美するつもりであるならば,感嘆の言葉は尽きることがありません。しかし,ここでわたしたちは別の道へ進みましょう。
万有引力の法則を導く議論の最後の部分を詰めるためにニュートンが導入した「質量」や「力」とは,いったいなにか。科学史上「質量」という概念を考案したのは,ニュートンです。彼以前にそんなものに注目したひとはいませんでした。彼自身による「質量」の定義は,「密度と体積との積」です。今日わたしたちは,質量と体積とから密度が求められると考えています。しかし,ニュートンにとって,密度は質量に先立ちます。その定義は,どういう発想にもとづいていたのか。彼がそのとき思いえがいていた密度や質量とはなんなのか。
また,物体の運動量を変化させる原因を「力」と名づけたのも,ニュートンです。彼は,「力」という概念を利用して,地上の物体の運動と天上の惑星の運動とを同一の原理で説明することに成功しました。しかし,彼が言う「力」は,どんなしくみで天体のあいだを伝わるのでしょうか。そもそも「力」は,物質から成るものなのか,それとも聖霊のような可想体なのか。それらの疑問について,ニュートンは,「わたしは仮説を作らない」(わからないことを語らない)とだけ言って,彼自身の見通しを示しませんでした。
いったん万有引力の法則に批判的な目を向けると,その法則は自然にとって本質的であるかどうかという疑問が生じるかもしれません。ケプラーの法則は,観測から帰納されたものであり,それらは「質量」にも「力」にも関係なく成立します。ニュートンは,先人の法則に,自分自身で考案した得体の知れない「質量」や「力」といった諸概念を絡ませ,さらに彼自身が提唱する運動の第二法則,第三法則をあてはめて,万有引力が存在すると主張しています。たとえば,哲学者ヘーゲルは,惑星の運動にかんする諸法則を発見したのはニュートンでなくケプラーであると論じ,「名声が第一発見者からそうでない者にこれほど不当に移ったことは,しばしばあることでない」と述べています(『エンチクロペディー』自然哲学)。
ニュートンと原子論と
読みやすさのために,結論を先に述べておきましょう。ニュートンは独特の原子論にもとづいて力学(と光学と)を構想したのではないかという見解を,わたしたちは目指します。原子と言っても,ニュートンが思いうかべていたであろうものは,今日わたしたちが学んで知っている原子ではありません。彼が想定したと思われるものは,物質と光とを構成する究極の粒子であり,数多くあるそれらの粒子はすべて均一であると見られます。ですから,それらは,今日でいう原子よりむしろ陽子,中性子,電子に近く,クオークに近く,超弦やさらに未知の実体(substances)に近いものです。もしニュートンが原子についてそういった洞察をもっていたと仮定すれば,以下の事柄にたいするわたしたちの理解は深まるでしょう。
- 彼は,質量を,密度と体積との積と定義しました。
- いわゆる活力論争において,彼は,ライプニッツの唱えた活力を支持せず,運動量を支持しました。
- 彼は,光線が粒子から成ると考えていました。彼はまた,光線が物質に変わり,物質が光線に変わることがあるかもしれないと考えていました。
- 彼は,錬金術師でした。つまり,たとえば,ありふれた金属が,希少な金に変わることがあるかもしれないと考えていました。
- 彼は,ユニテリアンでした。
素朴な運動量の可能性
運動量はニュートン以前から論じられていた
今日,学校では,ニュートンによる運動の三法則を習ったあとで,運動量について学ぶのがふつうです。しかし,ニュートン自身にとって,運動量は三法則に先立つものでした。彼は,エウクレイデス『原論』にならって,『自然哲学の数学的諸原理』の本文冒頭に「定義」および「公理」を置きました。「定義」で最初に言及されるのは質量であり,その次は運動量です。
定義 I
物質の量とは,物質の密度と大きさ(体積)とをかけて得られる,物質の測度である。
定義 II
運動の量とは,速度と物質の量(質量)とをかけて得られる,運動の測度である。
8 項目にわたる定義を終えると,彼は「公理,あるいは運動の諸法則」へ進みます。そこで,三法則が示されます。
法則 I
どんな物体も,それにはたらく力によって状態を変えるように強いられないかぎり,静止の状態または直線に沿って均一に運動する状態を維持する。
法則 II
運動(運動量)が変化する大きさは,物体にはたらく力につねに比例する。運動(運動量)が変化する方向は,物体にはたらく力が沿う直線の方向である。
法則 III
どんな作用にも,逆向きで大きさの等しい反作用が,つねに存在する。言いかえると,ふたつの物体が及ぼしあう相互の作用は,つねに大きさが等しく,向きが逆である。
今日わたしたちは,速度の時間微分(つまり加速度)が力に比例すると習いますが,ニュートン自身によれば,運動量の時間微分が力に比例する(法則 II)といいます。両者は,質量の時間微分がゼロであるという条件のもとで(つまり相対性理論を考慮しないならば),数学的に同値です。だから,どちらでもかまいませんが,当時の読者にとってのわかりやすさを考慮すると,運動量に言及するほうがよかっただろうと思われます。運動量は,『自然哲学の数学的諸原理』以前から先人によって議論されていたからです。たとえば,ルネ・デカルトは,『哲学原理』(1644 年)で次のような自然の三法則を提示しました。余談ながら,ニュートンは,1687 年に出版された自らの主著のひとつに『自然哲学の数学的諸原理』という書名を付けたさい,デカルトの『哲学原理』(原理は複数形)を念頭に置いていたと考えられます。
第一法則: どんなものも,可能であるかぎりにおいて,つねに,同じ状態でありつづける。したがって,いったん運動をしたものは,つねに,動きつづける。
第二法則: 運動は,そもそも,直線に沿う。したがって,円に沿って動くどんな物体も,それが描く円の中心から,つねに,遠ざかろうとする。
第三法則: 物体が,それより強い別の物体と衝突したならば,前者は運動をすこしも失わない。しかし,物体がそれより弱い別の物体と衝突したならば,前者は,運動のなんらかの量を失う。そして,それと等しい運動の量を,前者は後者に与える。
デカルトの第三法則は,今日のわたしたちの目で見ると混乱していますが,運動量保存則の萌芽的な表現と評価されることがあります。たしかに,「運動のなんらかの量」や「それと等しい運動の量」という表現に,運動を定量的に理解しようと努める彼の姿勢が窺えます。しかし,彼によれば,運動の量は,物体の「大きさ」と速さとの積であるといいます。運動量を質量と速度との積であると理解しているわたしたちにとって,物体の「大きさ」という表現は不満足です。むしろ,デカルトの第三法則は,カトリック教会の教義の一変種であるとわたしたちは見なすことができるかもしれません。西欧が 12 世紀にイスラム圏からアリストテレスを受容して以来,カトリック神学では,神の存在証明の根拠に,物体から別の物体に運動が伝わるという事実が利用されることがありました。たとえば,神学者トマス・アクィナスは,『神学大全』(1268 年)で,神が存在することを五通りの方法で証明しました。それらのうち最初の証明は,次のように,世界に動いているものがあることを根拠にして,神の存在を証明しています。
第一の比較的明白な方法は,運動(motus,変化)について論じることによって得られる。世界に動いているものがあるということは,確実であり,私たちの感覚には明白である。さて,なんであれ動いているものは,別のなにかによって動かされたのである。というのは,あらゆるものは,それが動いている向きの先にあるものにたいして可能態にある場合以外には,動くことができないからである。一方,動いているものは,それが動いているということを以って現実態にある。というのは,運動とは,ものを可能態から現実態に移行させることにほかならないからである。また,ものを可能態から現実態に移行させることができるのは,現実態にあるものだけである。たとえば火のように現実態において熱いものは,可能態において熱い木を現実態において熱くするのであり,それによって木材を動かし変えるのである。さて,ひとつのものが,別の観点についてならともかく,ひとつの観点について同時に現実態かつ可能態にあるということはありえない。というのは,現実態において熱いものが,同時に可能態において冷たいというならともかく,同時に可能態において熱いということはありえないからである。したがって,ひとつのものが,ひとつの運動について同時に動かすものとなり動かされるものとなることはありえない。つまり,ものは自分自身を動かすことができない。よって,なんであれ動いているものは,別のなにかによって動かされたのでなければならない。もし,動いているものを動かしたものがそれ自身動いていたのであれば,それもまた別のものによって動かされたのでなければならず,以下次々に別のものが必要になる。しかし,これを無限に続けることはできない。なぜなら,もしそれを無限に続けられるのであれば,最初に動かしたものはないということになり,ひいては,動いているものはなにもないという結論に至るからである。あとから動きだしたものは,最初に動かしたものが動かしたかぎりにおいて動いているにすぎないことを考慮すること。杖が手によって動かされるしかないのと同様である。したがって,他のものによって動かされたのではない,最初に動かしたものに辿りつくことは必然である。それを,すべての人々は神であると理解している。
トマスのこの議論は,アリストテレスによる「不動の動者(自らは動かされることなく他を動かす者)」論を下敷きにしています。アリストテレスは,それによって神の存在を証明しようとしたわけでなく,むしろ,時間に始まりがあり時間は有限であるという主張は論理的に「不動の動者」の存在を要請していると指摘したと考えられます。また,「不動の動者」論を神の存在証明に転用する主張は,カトリック以前にイスラムで行われていました。
デカルトや彼の同時代の知識人たちは,宇宙のすべての運動の第一原因は神であるという学説を知っていましたし,それが真実であると見なしてさえいました。そういった社会的了解のもとで,デカルトは,伝わる運動の量に言及しました。今日の観点では,そのはかりかたを誤ったまま。
デカルトを含む,ニュートン以前の人々は,質量という概念なしに,運動量についてなにを議論していたのでしょうか。かりにわたしたちが科学史に詳しくなろうとしているのであれば,当時の人々が書いた書物や手紙を仔細に検討しなければならないことでしょう。偉人たちが,一方で正しい主張を行いつつ,他方でなにかを誤っているようすを辿ることは,苦痛を伴います。その辛い作業を終えた科学史家たちの見解によれば,今日のわたしたちが満足できるような運動量の定式化を初めて行ったのは,クリスティアン・ホイヘンスであるといいます。彼は,その成果をクリストファー・レンに伝えたそうです。ところが,アイザック・ニュートンは,『自然哲学の数学的諸原理』で運動量について論じたさい,ホイヘンスとレンとの二人を名指しで批判しています。だれが信じられるのでしょうか。
偉人たちが書いた膨大な手紙の検証は歴史家に任せて,わたしたちは,デカルトが考えたような運動量の可能性を考察することにしましょう。言いかえると,ニュートンの考案した質量という概念なしに,運動量という概念によってどういった主張が論理的に可能であるかを見ていきましょう。それはいわば,絶滅した生物がもし生きのびていたとしたら,進化によってどんな生物になるかもしれなかったかを考えるようなものです。その作業をとおして,わたしたちは,ニュートンのいう質量にたいしてある視点を持つことができるでしょう。
重さが等しい二枚の硬貨の衝突
まず,単純な例を取りあげましょう。なるべくでこぼこのない机に,二枚の 10 円玉を,すこし間を開けて並べます。そして,一方の 10 円玉を指で弾いて動かし,それを静止している 10 円玉にぶつけます。うまくぶつけると,動いていた 10 円玉が止まり,その瞬間に,静止していた 10 円玉が動きだします。あえて非科学的に表現するならば,それはまるで,一方の 10 円玉に潜んでいた「勢い」が,衝突をきっかけにして,他方の 10 円玉に乗りうつったかのようです。
では,次のふたつの現象で,一方の「勢い」が他方に乗りうつったとわたしたちは説明できるでしょうか。
重い硬貨が軽い硬貨に衝突する現象
異なる種類の硬貨──たとえば 1 円玉と 500 円玉と──を,すこし間を開けて机に並べます。そして,大きいほうの 500 円玉を指で弾いて動かし,それを静止している 1 円玉にぶつけます。この場合,1 円玉が動きだしたあと,500 円玉が遅くなりながらも動きつづけるという現象が見られます。かりにそれを「勢い」のしわざとして説明しようとするならば,はじめ 500 円玉には大勢の「勢いたち」がいて,その一部が 1 円玉に乗りうつり,その他の「勢いたち」は 500 円玉に居残ったとでも言わなければならないことでしょう。
軽い硬貨が重い硬貨に衝突する現象
反対に,小さいほうの 1 円玉を動かして,それを 500 円玉にぶつける場合,500 円玉が動きだすと同時に,1 円玉は,はねかえって,衝突前と逆向きに動くという現象が見られます。かりにそれを「勢いたち」のしわざとして説明しようとするならば,衝突後に 1 円玉に居残った「勢いたち」がなぜ逆向きに動くかを説明するのに苦労することでしょう。
そこで,わたしたちは,非科学的な「勢い」といった存在の代わりに,「相対速度」と「物体の分割」という考えかたにもとづいて,これらの運動の変化を説明できるかどうか試しましょう。
相対速度
17 世紀,ガリレオ・ガリレイが暮らしていたヴェネツィアには港があり,そこに多くの帆船が出入りしていました。帆船には,帆を張るための支柱があり,その最頂部で船員が遠くを見張っていました。
船が港で錨泊しているとき,見張りの船員が支柱のてっぺんからうっかり石を落としたとします。強い風が吹いていないかぎり,石はまっすぐに落ちて,支柱のふもとあたりにぶつかるでしょう。石は,落下しているあいだ,だんだん速くなります。そのことは実験によって確かめられます。
波が穏やかな晴れの日には,船に乗っている人々にとって,船が進んでいるのか停まっているのか分からないくらい静かであることがあります。もし見張りの船員が,船が前進しているのに気づかないまま,石を落としたとすると,それはどのように落下するでしょうか。石は,船が停まっている場合と同じように,支柱のふもとあたりにぶつかります。そのことは実験によって確かめられます。
その場合,石はまっすぐに落ちていると言っていいでしょうか。落下する石を陸上で見ているひとがいるとします。石は,船員の手元から落ちて,支柱のふもとあたりにぶつかります。石が落下しているあいだに船がいくらか前進するので,石が落下しはじめるときの支柱の位置と,ぶつかるときの位置とは,陸上で見ているひとにとって異なります。陸上のひとにとって,石は,曲線に沿って落ちているように見えます。一方,見張りの船員にとって,石は,自分の足元の方向にまっすぐ落下しているように見えます。このように,同一の運動が,あるひとにはまっすぐであるように見え,別のひとには曲線に沿っているように見えることがあります。
ガリレオは,『天文対話』(1632 年)でそのことを指摘しました。この思考実験では,慣性とならんで,相対速度が扱われています。わたしたちはのちに,一方の硬貨にたいする他方の相対速度を利用して,硬貨の衝突で見られる現象を説明することにしましょう。
物体の分割
こんどは,重いものは軽いものより速く落ちるかどうかを考えましょう。キャノン砲の砲弾とマスケット銃の弾丸とを等しい高さから同時に手放すと,両者は同時に着地します。そのことは,実験で確かめられます。
けれど,そんなことくらい実験をするまでもなく分かると,『新科学対話』(1638 年)でガリレオは述べています。重さが異なるふたつの球が同じように落下することは,次のように説明されます。かりに,1 kg の球より 2 kg の球のほうが速く落ちるとします。では,それらをつないだものは,どのように落下するでしょうか。それは,1 kg の物体の速さと 2 kg の物体の速さとの中間の速さで落下するのか。それとも,3 kg の物体として落下するのか。かりに重さによって物体の落下のしかたが異なるならば,ひとがなにをひとつのまとまりと見なすかによって,物体の落下のしかたが異なることでしょう。そんなことは起こりそうにありません。
ガリレオは,ふたつの物体をつなぐ場合に言及しましたが,ひとつの物体をいくつかの部分に分割しても同じ議論が成立します。わたしたちはのちに,硬貨を分割して,衝突を説明することにしましょう。
デカルトの誤った主張をいったん受けいれる
先に見たように,デカルトが『哲学原理』で提唱した自然の第三法則は,次のようなものでした。
第三法則: 物体が,それより強い別の物体と衝突したならば,前者は運動をすこしも失わない。しかし,物体がそれより弱い別の物体と衝突したならば,前者は,運動のなんらかの量を失う。そして,それと等しい運動の量を,前者は後者に与える。『哲学原理』二部,四十節
今日の観点から見ると,この法則の第一文の主張は誤っています。というより,今日の考えかたや語法になじんでいると,この一文がなにを言っているのかがわからないかもしれません。デカルトは,その法則を示した直後に,それが成立すると彼が見なしたいくつかの例を挙げています。そのなかのひとつは,こういうものです。
動いている物体が他の物体に衝突するとき,もし動いている物体の,ひとつの直線に沿って動きつづける力が,もう一方の物体の抵抗より小さいならば,動いている物体の,方向は入れかわるが,運動は減らない。『哲学原理』二部,四十節
この例でデカルトが想定しているのは,ボールが壁にぶつかってはねかえるような場合です。速度 で壁にぶつかったボールが,弾性衝突ではねかえり,速度 で壁から遠ざかる場合を,彼は,運動量が保存される例に含めています。そのことは,今日の観点では誤りです。しかし,わたしたちはいま,ニュートン以前の素朴な運動量の可能性について考察しようとしています。そこで,しばらくのあいだ,デカルトのその主張を受けいれましょう。
重さが等しい二枚の硬貨の衝突についての素朴な説明
以上の準備を踏まえて,二枚の 10 円玉が衝突する現象について再考します。左の 10 円玉が,机にたいする速さ で動いていて,右にある,机にたいして静止している 10 円玉にぶつかるとします。その衝突をきっかけにして,右の 10 円玉が,机にたいする速さ で動きだし,左の 10 円玉は減速するとします。左の 10 円玉がどれくらい減速するか,わたしたちには分かりませんが,右の 10 円玉の速さが から に増えたので,左の 10 円玉の速さは,それと同じだけ,つまり だけ小さくなると仮定しましょう。つまり,左の 10 円玉の,机にたいする速さが,衝突後に になるとします。
その場合について,右の 10 円玉から見た,左の 10 円玉の相対速度を考えましょう。衝突前に,右の 10 円玉から見て,左の 10 円玉は速さ で近づきます。一方,衝突後の二枚の速さの差は, です。つまり,右の 10 円玉から見ると,左の 10 円玉は の速さで遠ざかります。
先に見た,ボールが壁ではねかえる例で,壁のところで見ているひとにとって,ボールは,速さ で近づいて,衝突後に速さ で遠ざかりました。それと同じように,右の 10 円玉から見て,左の 10 円玉は衝突後に速さ で遠ざかると仮定しましょう。このとき,
つまり,衝突後の,右の 10 円玉の速さ は に等しく,左の 10 円玉の速さ は であるという結論が得られます。止まっている 10 円玉に別の 10 円玉が速さ でぶつかると,止まっていた 10 円玉が速さ で動きだし,はじめに動いていた 10 円玉が止まるという現象が,なんとか説明されました。
重い硬貨が軽い硬貨に衝突する現象についての素朴な説明
こんどは,重さが異なる二枚の硬貨が衝突する例について考えましょう。計算を簡単にするために,重さ 2 の硬貨が重さ 1 の硬貨にぶつかるとします。ふたつの硬貨の重さの比が,2 : 1 です。
重さ 2 の硬貨が,机にたいする速さ で動いていて,机にたいして静止している,重さ 1 の硬貨にぶつかるとします。その衝突をきっかけにして,重さ 1 の硬貨が,机にたいする速さ で動きだし,重さ 2 の硬貨は減速するとします。
重さ 2 の硬貨がどれくらい減速するか,わたしたちには分かりませんが,先に見た,物体の分割の考えに沿って,次のように仮定しましょう:重さ 2 の硬貨を,二個の重さ 1 の物体が結合したものと見なします;ふたつの硬貨がぶつかった「衝撃(impulse,力積)」によって,重さ 1 の硬貨が速さ で動きだします;その「衝撃」の「反動(reaction,反作用)」が,重さ 2 の硬貨のふたつの部分に均等に分かれて及んだとわたしたちは見なして,それらのふたつの部分がいずれも だけ減速すると仮定します;つまり,重さ 2 の硬貨の速さが,衝突後に になるとします。
そのとき,衝突後の二枚の速さの差は, であり,重さ 1 の硬貨から見ると,重さ 2 の硬貨は速さ で遠ざかります。ボールが壁ではねかえる場合や二枚の硬貨が衝突する場合と同じように,一方の側から見て,他方が近づいてくる速さと遠ざかる速さとが等しいと仮定しましょう。
つまり,衝突後の重さ 1 の硬貨の速さは であり,衝突後の重さ 2 の硬貨の速さは,
重さ 2 の硬貨が速さ で,静止している重さ 1 の硬貨にぶつかると,重さ 1 の硬貨が速さ で動きだし,重さ 2 の硬貨は速さ に減速しつつも動きつづけます。重い硬貨が軽い硬貨にぶつかると,軽い硬貨が動きだし,重い硬貨も減速しつつ動きつづけるという現象が,なんとか説明されました。
軽い硬貨が重い硬貨に衝突する現象についての素朴な説明
もうひとつ,重さ 1 の硬貨が重さ 2 の硬貨にぶつかる例を見ましょう。重さ 1 の硬貨が,机にたいする速さ で動いていて,机にたいして静止している,重さ 2 の硬貨にぶつかるとします。重さ 2 の硬貨をふたつの部分に分割して,その現象について考察しましょう。
二枚の硬貨がぶつかった「衝撃」によって,重さ 1 の硬貨が だけ減速するとします。それと同じ大きさの「衝撃」が重さ 2 の硬貨のふたつの部分に均等に与えられるとすると,それぞれの部分が得る「衝撃」の大きさは,重さ 1 の硬貨が受けた「衝撃」の大きさの半分です。そこで,二枚の硬貨がぶつかったあと,重さ 2 の硬貨は速さ で動きだすと仮定します。つまり,衝突後の重さ 1,重さ 2 の硬貨の,机にたいする速さが,それぞれ , であるとします。
そのとき,衝突後の二枚の速さの差は, であり,重さ 2 の硬貨から見ると,重さ 1 の硬貨は速さ で遠ざかります。これまでの場合と同じように,その速さが,衝突前に近づく速さ に等しいと仮定すると,
つまり,衝突後の重さ 2 の硬貨の速さ は,
であり,重さ 1 の硬貨の速さ は,
重さ 1 の硬貨が速さ で,静止している重さ 2 の硬貨にぶつかると,重さ 2 の硬貨は速さ で動きだします。一方,重さ 1 の硬貨の衝突後の速さは という負の値で表されています。このことは,重さ 1 の硬貨が,はねかえって,もと来たほうへ速さ で進むことを意味していると,わたしたちは理解しましょう。軽い硬貨が重い硬貨にぶつかると,重い硬貨が動きだし,軽い硬貨がはねかえるという現象が,なんとか説明されました。
物理に詳しいかたのなかには,いまわたしたちが見た衝突の例が弾性衝突にかぎられていることに不満をお持ちのかたがいるかもしれません。また,「衝撃(impulse)」,「反動(reaction)」と西欧語を併記してある語は,物理ではそれぞれ「力積(impulse)」,「反作用(reaction)」というといぶかしむかたもいるでしょう。いずれもそのとおりですが,みなさんが思っているところへ,わたしたちはあとで参ります。それより,わたしたちは,いま考察したことを一般化しましょう。
素朴な運動量の弾性衝突における一般化
重さ , のふたつの物体 A,B が,それぞれ,地面にたいする速さ , で,一直線上を同じほうに進んでいるとします。A は,やがて B に衝突します。A,B の,衝突後の地面にたいする速さを,それぞれ , とします。
ここで,A は,重さ 1 の部分が 個だけ「集まったもの(mass,質量)」であると,わたしたちは見なしましょう。B は, 個の「集まり(mass,質量)」です。ふたつの物体がぶつかった「衝撃(impulse,力積)」が,B の 個の部分に均等に分けあたえられ,そのことによって,地面にたいする B の速さが だけ増えるとしましす。その「衝撃」の大きさをどのように測ればいいか,わたしたちには分かりませんが,衝撃 を 等分したものが B の速さを だけ増やす原因であると考えて, としましょう。つまり, です。衝撃 の 「反動(reaction,反作用)」が A の 個の部分に均等に及んで,A の速さが だけ減るとします。
この方程式の両辺に をかけて,整理します。
物理にお詳しいかたはお分かりのように,ここで最後に得られた方程式は,「運動量保存の法則」と同じ形をしています。ただし,ここでいう , は,それぞれの物体の「重さ」または「重さ 1 の部分の個数」を指していて,今日の教科書に載っている「質量(mass)」ではありません。またここでは,衝突前に B から見た A の近づく速さと,衝突後に B から見た A の遠ざかる速さとが等しいと,わたしたちは仮定しています。今日の語法でいうと,わたしたちは,ふたつの物体の衝突が弾性衝突であると仮定しています。しかし,教科書によれば,「運動量保存の法則」は非弾性衝突でも成立するといいます。そこで,わたしたちは次に非弾性衝突について考察しましょう。