資料:マッカーサー死去にさいしての日本政府の反応

資料:ダグラス・マッカーサー死去にさいしての日本政府首脳の反応

池田隼人内閣総理大臣による弔電

ジョンソン大統領閣下、マッカーサー元帥の死去に際し、私は日本政府と国民に代り閣下と米国国民に対し、心から哀悼の意を表する。元帥は勇気ある愛国者、忠誠なる市民として、その生涯を通して祖国に輝かしく奉仕した。日本人はこの偉大な将軍を、軍人としてのみならず、友人として愛情をもって記憶している。第二次世界大戦後、マッカーサー元帥は勝者を代表して敗戦日本に臨み、同情と賢明さをもって日本の再建に献身された。夫人と他の遺族に対し衷心よりお悔み申上げます。

黒金泰美内閣官房長官による談話

ただ今マッカーサー元帥の訃報に接し、私は日本政府および国民に代り深甚な哀悼の意を表する。

元帥は連合国最高司令官として、日本に対する深い理解と国際情勢についての卓越した洞察力に基づく賢明にして思慮深い占領政策を推進することによって、日本における民主主義の確立と経済の再建に絶大な貢献をされた。当時戦火によって廃墟と化した日本と虚脱状態にあった日本国民が今日の繁栄と国際的地位を享受しているのは、その後の日本国民の立直りと努力によることはもちろんだが、元帥が当時諸方面からの反対に抵抗しつつその信念を貫き、日本の進路を誤りなからしめた功績に負うところがきわめて大きい。

マッカーサー元帥に今日の日本の隆盛ぶりを親しく見ていただくとともに、日本国民の感謝の意を表するために、元帥を日本に招きたいという動きが国民の間にあったのだが、その機を得ないままに、元帥の訃報に接したのは誠に残念である。

ここにつつしんで元帥のご冥福を祈るとともに、ご遺族に対して深いお悔みの言葉を贈る。

朝日新聞に掲載された吉田茂による追悼

マッカーサー元帥逝去の報をきき、衷心から悲しみと、哀惜の念にたえない。

元帥が日本を去って既に十有余年、多くの日本人は、終戦当時のあの悲惨な状態を忘れるとともに、わが国に対するマッカーサー元帥の恩義をも忘れがちではあるまいか。

敗戦の荒廃、きびしい食糧不足、政治、経済、社会制度の混乱、人心の不安定、そのような中で現在のわが国の繁栄の源となった新日本の基礎造りの上に残された、元帥の偉大な業績を私は忘れることが出来ない。今日から見れば、あるいは占領行政に種々の批判もあり得ようが、天皇制護持、日本分割占領拒否という、最も基本的なわが国存続の条件を、断固として守り抜いてくれた元帥のお陰で、われわれが今日の繁栄と平和を得ていることを、感謝しなければならないと思う。

私は、マッカーサー元帥の在任中、きわめてしばしば、元帥に接触する機会を得たため、その人柄には強い感銘を受けたものである。軍人の家庭に生れ、軍人としての教育を受け、軍人として最も輝しい経歴をもった人であるにかかわらず、きわめてすぐれた政治感覚をもった人であった。当時の困難な国内情勢と、きびしい占領行政方針の板ばさみに、私が困惑した際、元帥は私の素直な主張によく耳を傾けて、わが国情や、民族性を理解してくれたし、また米国政府の対日政策の中にも、わが国情に不適当なものは、わが国のために弁護者として、その阻止に努力してくれたのである。

元帥は、その回想記の中で、天皇陛下のお人柄に深く感銘したことを述べておられるが、われに天皇陛下、彼にマッカーサー元帥があったことが、占領下のわが国にとって、幸運であったことを疑うことは出来ないと信じている。

元帥がわが国を去り、帰国し、米国議会でかの有名な演説を最後に軍歴を引退して後、私は両三度ニューヨーク市をたずねて、元帥に会う機会を得たが、元帥は常に、わが国の復興成長に深い関心を持って、わが事のように喜んでおられた。

私は、わが国にとってこのように偉大な恩人を、ぜひ一度日本に迎えて、戦後二十年のわが国の繁栄を見てもらいたいと念願していたが、今となっては、これも果し得ぬ夢となった。

私は日米両国の友好親善の歴史の中に、マッカーサー元帥の名が、永久に残ることを信じて、元帥の御冥福を祈りたい。

The Japan Times on Tuesday, April 7, 1964

A cable conveying the condolecence of Emperor Hirohito and Empress Nagako on the death of Gen. Douglas MacArthur was sent to Mrs. MacArthur, widow of the deceased five-star general, Monday.

MacArthur died of acute kidney and liver failure at Walter Reed Medical Center, Maryland, early Monday morning Japan time. He was 84.

Japanese political leaders were also quick to send messages.

In a message to U.S. President Lyndon B. Johnson, Prime Minister Hayato Ikeda said: "I wish to express to the American people my deepest sympathies over the passing of Gen. MacArthur. The general, as a courageous patriot and a loyal citizen, served his country brilliantly throughout his life. The Japanese people remember him with affection not only a great soldier but also a friend of this country.

"Gen. MacArthur, representing the victors, dedicated himself with sympathy and farsightedness to the reconstruction of Japan after World War II. I wish to express my grief on the occasion of his death."

Foreign Minister Masayoshi Ohira, in a cable to Mrs. MacArthur, said: "The passing of your beloved husband is a source of painful sorrow for us in Japan. Now that he has performed his duties in this world, we pray that he will rest in peace."

サリンジャーのために,愛と吐瀉物を添えて

ライ麦畑』について。

ホーウィッツ

「12」に出てくるタクシー運転手のホーウィッツは,はじめ移民みたいなカタコトを話します。けど彼は移民じゃありません。主人公ホールデンの質問に苛々して,ついに彼は素で喋ります。

"I ain't got no time for no liquor, bud," he said. "How the hell old are you, anyways? Why ain'tcha home in bed?"
「一杯やってる暇なんかない」そいつ言いよってん。「ぼんぼん,いくつ? いま時分なんでうちで寝てへんの?」

彼は十分な教育を受けていないようです。TV はもちろんラジオで標準語を習得する機会さえなかったのでしょう。喋るとそのことがバレるので,ホーウィッツはふだん移民のふりをしてカタコト英語を喋っていると思われます。ホールデンはそれを察して,彼をこんなふうに評します。

He was about the touchiest guy I ever met. Everything you said made him sore.
あいつ,おれがいままで見たなかで,いっちゃん神経質な人間やったわ。なに言うても傷つきよんねん。

そのことを踏まえると,ホーウィッツが出てくるシーンはこんな感じです。

「すいません,運転手さん」おれ言うてん。「セントラル・パークの池,通ったことあります? セントラル・パーク・サウスのとこの」
「なんですか」
「池。ちっこい池みたいな,あそこにある。鴨おるとこ。分かるでしょ」
「はい,なんですか」
「えーと,池で泳ぐ鴨,分かります? 春とかに。あの鴨,冬なったらどこ行くんか,もしかして知りませんか」
「だれがどこに行きますか」
「鴨。もしかしてなんか知りませんか。だれかトラックかなんかで来てどっか連れていくとか,鴨が自分らでどっか飛んでいく──南のほうへ,とか」
ホーウィッツ,わざわざおれのほう振りむいて,おれの顔見よってん。めちゃくちゃ気短いタイプのやつやったわ。悪いやつちゃうかってんけど。「なんでわたしがそんなことを知っていないといけませんか」そいつ,言いよってん。「なんでわたしがそんなアホらしいことを知っていないといけませんか」
「まあ,機嫌直してえな」おれ言うてん。そいつ,なんかに傷ついてるみたいやってん。
「だれの機嫌が悪いですか。だれの機嫌も悪くありません」
そいつそんなんでアホみたいに神経質なるんやったら,おれ喋んのん止めとこ思とってん。せやのに,そいつまた自分で言いだしよってん。またわざわざおれのほう向いて言いよってん。「魚はどこにも行きません。魚はずっとそこにいます。アホみたいに池のなかに」
「魚は──違う。魚は違う。鴨のこと言うてんねん」おれ言うてん。
「なにが違いますか。なにも違いません」ホーウィッツ言いよってん。なんかずっと傷ついてるみたいな口調やったわ。「魚のほうがきついです,冬は,鴨のほうより,アホンダラ。頭を使いなさい,アホンダラ」
おれ,一分ぐらい黙っとってん。ほんで言うてん。「分かった。ほしたら冬に魚はなにしてるんですか,あの小さい池がまるごと氷のかたまりなって,みんなが上でスケートとかしてるとき」
ホーウィッツ,また振りむきよってん。「魚はなにをしているは,どういう意味ですか」怒鳴ってきよってん。「魚はずっとそこにいます,アホンダラ」
「けど魚かて,氷ないふりはでけへんやん。氷は無視でけへんやん」
「だれが氷を無視しますか。だれも氷を無視しません!」ホーウィッツ言いよってん。アホみたいにカッカしとったから,街灯かなんかにタクシーぶつけよんのちゃうかて心配なったわ。「魚はアホみたいに氷のなかで生きています。それが魚の本性です,アホンダラ。冬のあいだずっと魚は氷のなかの一か所で凍っています」
「そうなん? ほしたら,なに食うてんのん。カチコチに凍ってるんやったら,餌探すん泳いでいかれへんやん」
「体があります,アホンダラ──なにが問題ですか。魚の体は栄養を取りいれます。アホみたいに氷のなかにある水草やウンコから。魚は毛穴をずっと開けています。それが魚の本性です,アホンダラ。わたしが言っていることが分かりますか」ほんで,また振りかえって,おれの顔見よってん。
「ああ」おれ言うてん。もう放っといてん。タクシー,アホみたいにどっかぶつけるんちゃうかて心配やったし。せやし,そいつめちゃくちゃ神経質なやつやから,議論する喜びいうもんがなかってん。「どっかで降りて,いっしょに一杯やっていきましょか」おれ言うてん。
けど,返事せえへんかってん。いま思たら,ずっと考えとおった思うわ。ほんで,もっかい訊いてみてん。 運転手,かなりええやつやったわ。かなり,おもろかったわ。
「一杯やってる暇なんかない」そいつ言いよってん。「ぼんぼん,いくつ? いま時分なんでうちで寝てへ んの?」
「眠たないねん」
アーニーズの前着いて運賃払たら,ホーウィッツまた魚のこと言うてきよってん。たぶんずっと考えとったんやわ。「あんな」ホーウィッツ言いよってん。「かりに,ぼんぼんが魚やとしょ。ほたら母なる自然は,ぼんぼん守ってくれるわ。せやろ。ほな,魚かて,冬なったからて死なんわ」
「そらそうやけど──」
「せやろ,死なんわ」ホーウィッツ言うて,地獄から飛びたつ蝙蝠みたいに発進していきよってん。あいつ,おれがいままで見たなかで,いっちゃん神経質な人間やったわ。なに言うても傷つきよんねん。

鴨が冬のあいだどうしているかという答えは,のちに読者にたいしてホールデン自身が明かすことになります。「16」で,自然史博物館のことを彼が思いだすくだりで,鳥たち(birds)は南に飛んでいくと彼自身が語っています。けど,それが,さっきの問いの答えだと彼は気づいてない。サリンジャーホールデンをからかってるとこです。


 

What's the matter?

この小説の登場人物たちは,よく what's the matter? と言います。かりにこの小説が映画化されるとするならば,彼らが what's the matter? と言ってるところをつなぐだけで予告編ができることでしょう(実際には作者が映画化を拒否して,この小説は映画への悪口に満ちています)。

「2」で,スペンサー(歴史の老先生)がホールデンに。

It started, all right. "What's the matter with you, boy?" old Spencer said. He said it pretty tough, too, for him. "How many subjects did you carry this term?"
けど,話始まったわ。「おまえ,いったい,なにが問題やねん」スペンサー言いよってん。あいつにしては,かなり厳しい口調やったわ。「きみは,今学期,何科目受講しとったんや」

「6」で,ストラドレーター(同室の上級生)がホールデンに。

He had hold of my wrists, too, so I couldn't take another sock at him. I'd've killed him.
"What the hell's the matter with you?" he kept saying, and his stupid race kept getting redder and redder.

それに,おれ,手首,両方とも掴まれとってん。おれがもう一発殴るかもしれんから。そうやなかったら,おれ,あいつのこと殺しとったわ。
おまえ,なにが問題やねん」あいつ,そればっかり言うて,アホな顔どんどん赤なったわ。

「7」で,アクリー(隣室の上級生)がホールデンに。

"Hey, Ackley!"
He heard that, all right.
"What the hell's the matter with you?" he said. "I was asleep, for Chrissake."

「ちょっと,アクリー!」
やっと起きよってん。
なんやねん,おまえ」あいつ言いよってん。「おれ寝とってんぞ」

「11」で,ホールデンがジェーン(隣の別荘にいた女の子)を思いだしながら。

I asked her, on the way, if Mr. Cudahy--that was the booze hound's name--had ever tried to get wise with her. She was pretty young, but she had this terrific figure, and I wouldn't've put it past that Cudahy bastard. She said no, though. I never did find out what the hell was the matter. Some girls you practically never find out what's the matter.
その途中で,おれ,ジェーンに,いままでカダヒーさんに──その酒飲みのおっさんな──なんか嫌なことされそうなったことあんの,て訊いてみてん。ジェーン,まだ幼いけど,すごい体型ええから,カダヒーのおっさんやったらやりかねへん思てん。けど,ジェーン,そんなんない,言いよってん。なにが問題なんかぜんぜん分からんかったわ。なにが問題なんかホンマぜんぜん分からん子ておんねん。

「12」で,ホーウィッツ(タクシー運転手)がホールデンに。

"Yeah? What do they eat, then? I mean if they're frozen solid, they can't swim around looking for food and all."
"Their bodies, for Chrissake--what'sa matter with ya?

「そうなん? ほしたら,なに食うてんのん。カチコチに凍ってるんやったら,餌探すん泳いでいかれへんやん」
「体があります,アホンダラ──なにが問題ですか

「13」で,サニー(娼婦)がホールデンに。

She came over to me, with this funny look on her face, like as if she didn't believe me. "What'sa matter?" she said.
そいつ,おれのほう来て,ホンマのこと言うてへんやろみたいなヘンな顔しよってん。「なにが問題なの」そいつ言いよってん。

「14」で,ホールデンがモーリス(ポン引き)に。

"What's the matter? Wuddaya want?" I said. Boy, my voice was shaking like hell.
"Nothin' much," old Maurice said. "Just five bucks." He did all the talking for the two of them. Old Sunny just stood there next to him, with her mouth open and all.

なんですか。なんの用ですか」おれ言うてん。ううわあっ,声めちゃくちゃ震えとったわ。
「たいした用ちゃう」モーリス言いよってん。「五ドル払てもらおか」ふたりおったけど,モーリスだけ喋りよってん。サニー,隣立って,口開けとったわ。

「17」で,ホールデンがサリー(つきあっている女の子)に。

"Because you can't, that's all. In the first place, we're both practically children. And did you ever stop to think what you'd do if you didn't get a job when your money ran out? We'd starve to death. The whole thing's so fantastic, it isn't even--"
"It isn't fantastic. I'd get a job. Don't worry about that. You don't have to worry about that. What's the matter? Don't you want to go with me? Say so, if you don't."

「あんたがそんなんでけへんからやん,それがすべてやわ。そもそもわたしらふたりとも実際は子どもやねん。あんた,自分がお金なくなったときもし仕事見つかれへんかったらどうしようて立ちどまって考えたことあるん? あんたが仕事見つかれへんかったら,わたしら餓死すんねんで。そんなん全部絵空事やん──」
絵空事なんかちゃうわ。もしそうなったら仕事見つけるわ。そんなん心配すんな。おまえはそんなん心配せんでええねん。なにが問題やねん。おれと行くのが嫌なんか。嫌やったらそう言うて」

「23」で,ホールデンがフィービー(妹)に。

"Oh, I wouldn't've burned your hand. I'd've stopped before it got too--Shhh!" Then, quick as hell, she sat way the hell up in bed.
She scared hell out of me when she did that. "What's the matter?" I said.
"The front door!" she said in this loud whisper. "It's them!"

「いや,お兄ちゃんの手火傷させたろとは思てなかったわ。熱なったら止めたろ思──シー」ほしたら,急にばって起きあがってベッドのなかで座りよってん。
突然なんや思て,おれめちゃめちゃびびったわ。「なんや。なんか問題あんのか」おれ言うてん。
「うちの戸や!」あいつ息だけではっきり聞こえるように言いよってん。「帰ってきた!」

「24」で,アントリーニ先生(以前に在籍していた学校の先生)がホールデンに。

"I left my bags and all at the station. I think maybe I'd better go down and get them. I have all my stuff in them."
"They'll be there in the morning. Now, go back to bed. I'm going to bed myself. What's the matter with you?"

「駅にカバンとか置いたままにしたあるんです。たぶんそろそろ取りに行ったほうがええ思うんです。なんやかや入ってるから」
「それは朝なってからでかまへんやろ。ほら,もっかい寝。ぼくも寝るわ。なにが問題やねん

ライ麦畑』の成立過程を調べればわかるとおり,その小説が出版される 10 年前に,作者サリンジャーは『ライ麦畑』の「17」にそっくりな短編小説を雑誌編集部に送っていました。「マディソンのはずれで起きた些細な造反」と題されたその短編で,主人公ホールデンは,クリスマス休暇中にサリーに会い,駆けおちしようと彼女に言って上で引用したのとほとんど同じ会話を交わします。『ライ麦畑』ではそれに至るまでに 100 ページを越える彼の語りが配置されているのにたいして,その原型の短編小説で描かれるのはふたりのデートから。『ライ麦畑』がホールデンの一人称で語られているのにたいして,その短編小説は三人称で語られます。短編小説の読者にとって,若い男性がなんらかの危機に瀕していると察することはできても,彼に共感することは容易でないでしょう。『ライ麦畑』は,ホールデンがなんでマディソンのはずれで社会から逃げだしたがっているかを,あとから書きたしたものです。サリンジャーはその後,短編小説「バナナフィッシュにぴったりの日」でシーモアが自殺した理由を描くためにグラス家の大河小説に着手しましたが,そちらは未完に終わりました。

そんな事情があるために,『ライ麦畑』の成立過程で最初に発せられた what's the matter? は,「17」でホールデンがサリーに言うぶんです。どの口が言う。他の登場人物たちがホールデンにそう言うのは,ツッコミのようなものです。


 

ナレーションにおける現在時制

ライ麦畑』のナレーターは,ホールデンです。彼は,だれに語っているか。多くの一人称小説で,ナレーターは読者に語ります。一方,ホールデンは次のように言います。

I'll just tell you about this madman stuff that happened to me around last Christmas just before I got pretty run-down and had to come out here and take it easy.
-- 1

A lot of people, especially this one psychoanalyst guy they have here, keeps asking me if I'm going apply myself when I go back to school next September.
-- 26

ホールデンが「ここ(here)」と呼んでいるのは,西海岸にある療養施設であると示唆されています。彼がその施設のなんらかの職員に語るという設定で綴られたものが,この小説です。そのため,読者に語る一人称小説においてならば意味をなさないであろう表現が,『ライ麦畑』に現れます。たとえば「7」で。

Anyway, that's what I decided I'd do. So I went back to the room and turned on the light, to start packing and all. I already had quite a few things packed. Old Stradlater didn't even wake up. I lit a cigarette and got all dressed and then I packed these two Gladstones I have. It only took me about two minutes. I'm a very rapid packer.
とにかくそうしよ思てん。せやから部屋戻って電気点けて荷物まとめてん。もうだいたい詰めとってんけどな。ストラドレーター,ずっと寝とったわ。煙草点けて,服着て,ここにも持ってきたグラッドストーンのカバンふたつに荷物詰めてん。二分で終わったわ。おれ,荷物詰めんの早いねん。

こういった現在時制が与える違和感のおかげで,この小説の読者は,いまホールデンの目のまえにあるものは学校の寄宿舎でないと思いだします。現在流通している日本語版で,そういった効果が無視されているのは残念なことです。


 

It's a secret between he and I

アントリーニ先生は「24」で,転落したホールデンが 30 歳のときどうなってるかを想像して,彼に次のように語ります。

"It may be the kind where, at the age of thirty, you sit in some bar hating everybody who comes in looking as if he might have played football in college. Then again, you may pick up just enough education to hate people who say, 'It's a secret between he and I.' Or you may end up in some business office, throwing paper clips at the nearest stenographer.
「三十歳ぐらいで,どっかのバー座って,客がまるで大学でフットボールやってましたみたいな顔で入って来たら,そいつらのこといちいち嫌うようになる転落かもしれん。けどあいにくきみは教育を受けて,'It's a secret between he and I' とか言うようなひとらのことを嫌うようにもなってるやろ。それか,きみはどっかの会社入って,近くのタイピストにクリップ投げつけるような人間になりはててるかもしれん」

十分な教育を受けていない人々が言いそうな文としてアントリーニ先生が例に挙げる It's a secret between he and I は,教育のある人々が受けいれている文法に則って修正すると It's a secret between him and me です。それと同じ,代名詞の格の誤用を,ホールデンも行っています。

たとえば,「22」で。

"He was all out of breath from just climbing up the stairs, and the whole time he was looking for his initials he kept breathing hard, with his nostrils all funny and sad, while he kept telling Stradlater and I to get all we could out of Pencey."
おっさん階段昇っただけで完全に息切れとってん。頭文字探しとおるあいだ,ずっと音立てて息しとおってん。鼻の穴,おもろい形なったり悲しい形なったりしとってん。せやのにストラドレーターとおれに,ペンシーで身につけれるもんは全部身につけとけよ言いよんねん。

ホールデンが興奮して長文を喋っている一部ですが,太字の部分は Stradlater and me であるべきです。続いて「23」で。

I think I probably woke he and his wife up, because it took them a helluva long time to answer the phone.
いま考えたら,おれたぶん先生と奥さん起こしてしもてん。電話出るまで,めちゃめちゃ時間かかってん。

この太字の部分は him and his wife であるべきです。

現在流通している日本語版で,そういった効果が無視されているのは残念なことです。


 

オチ

サリンジャーが発表した長編小説(novel)は,『ライ麦畑』のみ。それ以外に彼が発表したものは,短編小説(stories)です。最初はハードカヴァーの本になるのが,長編小説。はじめ雑誌に掲載されるのが,短編小説です。

ライ麦畑』は,26 の部分から成りますが,それぞれの部分は「部(part)」とも「章(chapter)」とも呼ばれていません。数が表示されているだけ。上述のように,その一部は,いったん独立した短編小説として書かれました。

ライ麦畑』の 26 の部分のなかには,オチがついているものがいくつかあります。たとえば,ホールデンが予定を早めて寄宿舎を出ていく「7」の最後。

"Sleep tight, ya morons!" I'll bet I woke up every bastard on the whole floor. Then I got the hell out. Some stupid guy had thrown peanut shells all over the stairs, and I damn near broke my crazy neck.
「よう寝ろよ,このアホども!」あの階の全員起こしたった思うわ。ほんで,おれ出ていってん。どっかのアホが階段じゅうにピーナッツの殻捨てとおったから,もうちょっとでアホみたいに首折るとこやったわ。

ピーナッツの殻で滑って転びそうになった,というホールデンの発言で,続く「8」の冒頭は雪景色に一転します。きれいなオチです。

「23」で,両親に内緒で自宅に忍びこんで妹に会ったあと,ホールデンはアパートメントの裏階段をこっそりと歩いて降ります。彼はそのとき,また転びそうになります。

I walked all the way downstairs, instead of taking the elevator. I went down the back stairs. I nearly broke my neck on about ten million garbage pails, but I got out all right. The elevator boy didn't even see me. He probably still thinks I'm up at the Dicksteins'.
下までエレヴェーター乗らんとずっと歩いて降りてん。裏の階段。ごみバケツ一千万個ぐらいあって,つまづいて首折りかけたけど,なんとか無事に外出てん。エレヴェーター係,会えへんかったわ。あいつたぶんいまでもおれディックステーンさんとこおる思とおるわ。

続く「24」の冒頭で,アントリーニ先生のアパートメントに舞台が移ります。

それらは場面を円滑に転換するためのオチですが,「8」のオチはなんなんでしょ。「7」で寄宿舎に一方的に別れを告げたあと,ホールデンは「8」で駅まで雪道を歩いて汽車に乗ります。途中で,上品な中年女性がその汽車に乗ってきます。彼女は,ホールデンが退学になったばかりの学校で同学年だった生徒モローの母親であるとわかります。ホールデンは,その生徒のことを嫌っていますが,自分の相手をしてくれる女性のことを(母親以外ならば)だれでも好きになるので,モローの母親に煙草を勧めてカクテルを飲みにいこうと誘います。彼は,彼女の気を引くために,モローのことを口から出まかせで誉めますが,彼女はホールデンに深入りしないほうがいいと察して,会話が途絶えます。やがて彼女が先に列車を降りるとき,彼女は社交辞令で,ホールデンに,夏休みにうちに遊びに来てねと誘います。ホールデンは,感謝して,夏休みは南米に行く予定があると答えます。それから彼は,この話を語っている相手に,たとえ世界中のお金をもらってもモローのとこなんか行かないと付けくわえます,こんなふうに。

But I wouldn't visit that sonuvabitch Morrow for all the dough in the world, even if I was desperate.

ふだんサナヴァビッチ(雌犬の息子)という罵倒語を使ってるので,ホールデンはここでモローをそう形容します。おまえ,その雌犬のこと好きなんちゃうの?


ライ麦畑で捕まえるやつ

この長編小説の題名は,「22」における次の独白に由来しています。

「『ライ麦分け来る子捕わば』いう歌あるやん。それ──」
「それ,『ライ麦分け来る子と会わば』やん」フィービー言いよってん。「それ詩やん。ロバート・バーンズの」
ロバート・バーンズの詩いうんは,おれかて知ってるわ」
あいつの言うとおりやってん。たしかに「ライ麦分け来る子とあわば」やねん。けどおれ,そんときそれ知らんかってん。
「『捕わば』や思とったわ」おれ言うてん。「とにかく,ライ麦のでっかい畑とかで小さい子どもらがみんななんかして遊んでるとこ,おれよう想像すんねん。小さい子何千人もおって,まわりだあれもおれへんねん──大人おれへんねん──おれ以外。ほんでおれアホみたいな崖の端んとこ立ってんねん。子ども崖から落ちそうやったら,おれその子捕まえんねん,それがおれの役やねん──子ども走っとって,そっち行ったらどうなるか見てへんかったら,おれどっかから出ていって,その子捕まえんねん。おれ一日中それだけやってんねん。おれライ麦畑でそうやって子ども捕まえるやつとかなりたいねん。気狂てるんは分かってるけど,おれホンマなりたいんてそれだけやねん。気狂てるんは分かってるけど」
フィービーしばらく黙っとおってん。ほんでなんか言う思たら,「お兄ちゃん,お父さんに殺されてまうやん」言いよってん。

なので日本語でも題名は『ライ麦畑で捕まえるやつ』がいいのではないでしょうか。

ライ麦畑で捕まえるやつ

「四月は残酷な月」と言ったのはマリー

このところ,疫病にそなえて遺言シリーズを書いてるんで,これも言っとこ。T. S. エリオットの「荒地」(The Waste Land)の冒頭で,April is the cruellest month と言ってるのはだれ。冒頭のスタンザの後半は貴族のマリーの発言であることが明白だから,四月は残酷だと言ってるのはマリーだとわたしは思います。女性。The Waste Land には複数のナレーターがいるけど,どの部分でも,ひとつのスタンザを語ってるのはひとり。

なのに,これまでの日本語訳では,男性が,四月は残酷と言ってるていになってる。あれ,女性に変えたほうがいいと思います。

訳文をウェブ上で公開していいのかどうかわかんないけど,エリオットが亡くなってから 50 年以上経ってるし,原文があちこちのサイトに掲載されてるんで,ここにわたしの訳文を貼っときます。エリオットの著作権についてはともかく,わたしの翻訳著作権は放棄します。そんなんどうでもいいから,IV. Death by Water の色彩が,西脇順三郎Ambarvalia に影響してるのを見て。


荒地

T. S. エリオット
1922

「かつて私はこの目で,吊るした壷に入りこんでいる
クマエの巫女を見たことがある,子供が,巫女よ,
なにがしたいと尋ねると,彼女は答えた,もう死にたいんだよ」

私の及ばぬ匠
エズラ・パウンド


I. 死者を埋める

 四月が一番残酷な月ですよ。四月は,  
死んでしまったこの大地にライラックを育てますし,思い出に  
欲を混ぜて,くたびれた根を  
春の雨で揺さぶります。  
冬は暖かでした。雪が積もれば  
地べたのことは忘れましたし,小さな命は  
萎びた芋にありつけました。  
夏はわたくしたちを驚かせました,シュタルンベルク湖の向こうから  
大粒の雨を連れて来ました。わたくしたち,軒下でひと休みして,  
また日向を歩き,ホフガルテン 10
コーヒーをいただいて,一時間ほど話をしました。  
ワタクシろしあジンジャゴザイマセンノ,ウマレハりとあにあデスケド,レッキトシタどいつジン。  
子供のころ,オーストリア大公の御殿にお邪魔して,  
従兄妹なのよわたくしたち,大公がわたくしを橇に乗せて連れだしましたの。  
それは怖くて。マリー  
マリー,しがみついてなって。そして滑ったの,二人で。  
山では自由な気分になりますね。  
ふだんは本を読んでおります,夜はたいてい。冬は南にまいります。  
   
 このしぶとい根は何者か,石屑に  
生えている木は何者か。人の子よ, 20
おまえには分かるまい,思いもよるまい。色と形の残骸しか  
おまえは知らないから。おまえに見えるのは,光を打ちつける太陽,  
影のない枯れ木,鳴かないコオロギ,  
せせらぎの音を立てない砂まみれの石。ただ  
この赤い岩に影ができている,  
(この赤い岩の影に来い),  
わたしはおまえに見せてやろう,  
朝おまえに大股でついてくる影とは違う,  
夕方おまえを迎えにくる影とは違うものを。  
ひと握りの土のなかに恐怖を見せてやろう。 30
     クニモトヘムカフ  
     ヨキカゼイデタリ  
     ワガあいるらんどノワラハ  
     イヅコカサマヨフ  
「一年前はじめにヒヤシンスをくださいましたね,  
「みんなにヒヤシンス娘ってひやかされましたのよ」  
──けれど,ふたりで遅くなって,ヒヤシンス畑から帰ってきたとき,  
おまえは両腕に花を抱え,髪は濡れ,おれは  
なにも言えなかった,なにも目に入らなかった,あのときおれは  
生きてなかった,死んでもいなかった,どうしていいか分からず, 40
光の芯を見ていた,沈黙を。  
ウミハアレテムナシ  
   
 千里眼で有名なマダム・ソソストリスは,  
ひどい風邪をひいていましたが,  
ヨーロッパ一霊感が強いと評判です。  
不気味なカードを並べて彼女は言いました。これが  
あなたのカード,溺死したフェニキアの「水夫」,  
(これがその水夫の目だった真珠ですよ,ほら!)  
これは「ベラドンナ」,岩窟の貴婦人,  
状況を支配します。 50
ここにいるのが三本の杖を持つ男,これは「運命の輪」,  
そしてここに隻眼の商人がいますね,このカードは  
空白ですが,この商人が背負ってる物という意味です,  
それがなにかを見ることはわたしには禁じられています。「逆さ吊りの男」が  
見当たりませんね。水死にお気をつけください。  
大勢の人が輪になって歩いているところが見えます。  
これはお気遣いいただきまして。もしエクイトーン夫人にお会いでしたら,  
運勢図はわたしが自分でお持ちしますとお伝えください。  
このごろはなにかと物騒ですから。  
   
 現実でない町, 60
冬の朝を包む茶色い霧のなか,  
ロンドン橋を大勢の人が流れてきた,こんなにも,  
死がこんなに大勢を連れてきているとわたしは思っていなかった。  
彼らは時々短い溜息を吐いていた。  
だれもが足先を見ていた。  
ウィリアム王街の坂を上って下り,  
聖母ウルノス教会が告げる九時の鐘は  
最後の音が響かなかった。  
顔見知りを見つけて,わたしは大声で呼びとめた。「ステットソン!  
「ミュラエ沖海戦のわが戦友! 70
「去年おまえが庭に植えたあの死体,  
「あれ,芽が出たか。今年,花が咲きそうか。  
「それとも,霜が下りて苗床がやられたか。  
「おい,『犬』を近づけるな,犬は人間の味方だが  
「近づけると爪で掘りかえすぞ!  
「おい! ギゼンノドクシャ!──ワガドウホウ──ワガキョウダイヨ!」  

II. チェスを一局

 彼女の 座る 「椅子」 眩い 玉座のように  
大理石の 床に 映っていた 床に 立つ 鏡の  
柱に 葡萄の 彫刻  
金色 キュピドンが 蔓の 外を 見ていた 80
(片方の 翼で 目を 覆った もうひとり)  
七叉の 燭台 鏡の なかに もうひとつ  
灯り 食卓で 撥ねかえり  
それを 彼女の 宝石の 光が 昇って 迎えていた  
あふれる 繻子の 箱から。  
象牙の 瓶 色ガラスの 瓶  
栓が 開いて 彼女の 妙な 合成 香料が 潜んでいた  
軟膏 粉 液--臭覚が 戸惑い 誤って  
溺れた。 窓から 入る  
いい 風に 揺さぶられ 臭いが 90
炎たちを 膨らませて 伸ばし  
煙が ラクェアリアに ぶつかって  
格天井の 模様が 揺れた。  
大振りの 流木 銅が くべてある  
緑と 橙の 炎 色の ある 枠の 石  
寂しき 灯りに 照らされて 海豚の 姿 泳ぎたり。  
老けこんだ 暖炉の 上に  
窓から 森の 景色が 見えるように  
ピロメラの 変身譚の 絵が 飾られていた,あの 下卑た 王に  
無残な 目に 遭わされた。 しかし 声は 奪われなかった 100
夜鶯の 声は 荒野の 隅々に 届いた  
彼女は ずっと 鳴いていた それを いまなお 世界は 探している  
汚れた 耳に 「ジャッジャッ」と。  
壁では ほかにも 時が 萎れた 痕跡が  
語られていた。目を 見張った 形相で  
部屋を 囲む 像 前のめりで 見下ろして 音を 封じていた。  
階段で 足音 もつれた。  
灯火の 下 ブラシの 下 彼女の 髪が  
炎みたいに とがって 広がり  
光を 放って 言葉に なった そのあと 髪は 森の ように 静かに なることだろう。 110
   
 「今夜は嫌なことばかり考えてしまいます。そう,嫌なことばかりを。お願い,いっしょにいらして。  
 なにかおっしゃって。どうしてなにもおっしゃらないの。なにか。  
  なにをお考えですか。どんなこと。なにを。  
 あなたがなにを考えてらっしゃるのか,わたしは分かったためしがありません。なにかお考えになって」  
   
 わたしの考えていること。ここは鼠たちの裏通り,  
死んだら骨を持っていかれる。  
   
 「なんの音かしら」  
     扉の下を風が抜ける音。  
「いまのなんの音なのかしら。風がなにをしてるの」  
     なんでもない,ほらまたなんでもない。 120
          「あなた,  
なにもお分かりでありませんの。目はお見えなの。なにも  
覚えてらっしゃらないの」  
     わたしの覚えてること。  
これがその男の目だった真珠。  
「あなた,生きてらっしゃるの,どうなの。頭がからっぽなのかしら」  
          いや,  
おおおおあのシェークスピア風のラグタイム──  
あれは素晴らしい。  
じつに知的だ。 130
「わたし,どうすればいいの。なにをすれば。  
髪を垂らして,このまま外へ飛びだして,  
表通りを歩きますか。明日はなにをしましょう。  
これからずっとなにをしましょう」  
          十時に風呂。  
それから雨なら四時に天蓋付き自動車。  
それからチェスでも指そうか,  
瞼のない両目を押さえて,だれかが扉を叩くのを待ちながら。  
   
 リルの旦那が除隊したときさ,あたしゃ言ってやったよ──  
ずばっと言ってやったんだよ,面と向かってあのこに。 140
そろそろお時間です  
アルバートが帰ってくんだから,ちょっと考えなって。  
あのこアルバートに歯治すお金もらってたのよ,  
あたしゃこの目で見てたんだ,あのお金どうしたってきかれるよって。  
リル,いっそ全部抜いてさ,いい入れ歯拵えな,  
旦那が言ったろ,あたしゃはっきり覚えてるよ,おまえの姿は見るに忍びないって,  
旦那の言うとおりだってあたし言ってやったんだ,アルバートの身になってごらんよ,かわいそうにって,  
四年も兵隊に行っててさ,ようよう一息吐けるってのに,  
あんたにその気がないんならどっかほかの女んとこ行っちまうよって。  
そしたらさ,そんな女いるかしら,だって。そりゃ知れないよって言ったら, 150
だったらその女に礼を言うよって,あたしのこときっと睨みつけんのよ,あのこ。  
そろそろお時間です  
その気がなくても上手におやりよって。  
あんたがやんなきゃだれかがさらってくの。  
アルバートが出てったら,ああやっぱりってみんなが言うよ。  
そんな老けたなりしてみっともないと思いなよって。  
(だってあのこまだ三十一よ)  
あのこ,もうやめてって泣きそうな顔で,  
薬のせいだって言うんだ,堕ろすのに飲んだ。  
(もう五人いて下のジョージのときにゃ死にかけたから。) 160
薬剤師は大丈夫って言ってたのに,あれからずっと調子がおかしいの。  
あんたは本当の大馬鹿よって言ってやったよ。  
よしんばアルバートがあんたを放っておかなくたって,あんたが馬鹿なのは変わりないさって。  
子供が欲しくないなら結婚なんかなんですんのさ。  
そろそろお時間です  
けどアルバートが日曜に帰ってきたときさ,あのこたちハムを焼いて,  
ぜひごいっしょにってあたしをよんでくれて,熱々のおいしいとこを──  
そろそろお時間です  
そろそろお時間です  
おやすみビル。おやすみルー。おやすみメイ。おやすみ。 170
ありがと,ありがと。おやすみ。おやすみ。  
おやすみなさい,奥様方,おやすみなさいませ,うるわしい奥様方,おやすみなさい,おやすみなさい。  

III. 燃える火の教え

 川の天幕が壊れています。最後に残っていた一房の葉が  
河原の泥を掴んで沈んでいきます。枯れた草原に  
風が吹いています,音もなく。妖精たちはどこかに行ってしまいました。  
うるわしきテムズ,静かに流れよ,わたしが歌いおえるまで。  
川には空き瓶がありません,サンドウィッチの包み紙も,  
絹のハンカチも,段ボール箱も,煙草の吸い殻も,  
夏の夜の面影がありません。妖精たちはどこかに行ってしまいました。  
そして彼女たちとともにいた,至る所に出没するあのシティーの重役の御曹司たちも 180
どこかに行ってしまいました,住所を明かさず。  
レマン湖の畔に座ってわたしは涙を落としました。  
うるわしきテムズ,静かに流れよ,わたしが歌いおえるまで,  
うるわしきテムズ,静かに流れよ,声を控えるから,すこしのあいだだけ。  
けれど背後の突風に  
骨がかたかた鳴るのが聞こえます,そして両方の耳まで開いた口が笑うのが。  
   
鼠が一匹這っていました,そっと草を押しわけて  
腹を河原の泥に擦りながら,  
そのときわたしはくたびれた運河で釣をしていました,  
冬の陽が沈むころ,ガス工場の裏で, 190
わが兄上である王が難破されたことを,  
さらにその前に,わが父上である王が亡くなったことを反芻しながら。  
道端の低い湿地には死体たちが白い腹を晒しています,  
天井の低い乾いた屋根裏に骨が散らばっています,  
そしてあの鼠が歩くときにだけ骨は音を立てます,何年も何年も。  
けれど背後に時折  
警笛とエンジンの音が聞こえます,  
スウィーニーがポーター夫人のいる泉に行くのでしょう。  
ああ,月影に浮かぶポーター夫人  
娘を連れて。 200
ラムネの泉で足をざぶざぶ洗います。  
ソシテアア,マルテンジョウカラキコエルワラベノウタゴエ!  
   
トゥイトゥイトゥイ  
ジャッジャッジャッジャッジャッジャッ  
無残な目に遭わされた。  
テレウスめ  
   
 現実でない町,  
冬の正午を包む茶色い霧のなか,  
あのスミュルナの商人,髭を伸ばし放題にして  
C.i.f. ロンドン:文書一覧交換 210
の干葡萄を片方のポケットに詰めこんだエウゲニデス氏は  
俗フランス語でわたしを  
キャノン・ストリート・ホテルの昼食に誘い  
週末はメトロポールでいかがと言ってきた。  
   
 菫色になるとき,机から  
両目と背中が捩りながら起きあがり,人間の発動機が  
どっどっどっと客を待つタクシーのように震えだすとき,  
わたくしことティレシアス,二生のあいだで生きる盲の老人,  
男ながら乳房は女で萎びている,とはいえ,菫色になるとき,  
ひとが家路を急ぎ, 220
船乗りが海から戻る夕暮れになると,  
見える,タイピストが家でお茶を一服して,朝ごはんの後片付けをし,ストーヴに  
火を入れて,ブリキ皿に夕食を並べるのが。  
窓の外に危なげに干してある  
彼女の下着が太陽の最後の光を浴び,  
靴下と部屋履きとキャミソールとコルセットが  
寝椅子に放ってある(夜はそこで寝る)。  
わたくしことティレシアス,乳房の萎びた爺は,  
その光景が分かった,そのあとのことも──  
その男をわたしも待つことにした。 230
面皰のあるその若者がやって来る,  
小さな不動産屋のぎょろ目の店員,  
ブラッドフォードの成金がかぶるシルク・ハットのように  
自信を頭に乗せた下層民。  
いよいよ好機が訪れた,それは男にも分かった,  
食事が終わり,女は疲れて気が抜けている,  
愛撫の前触れは,  
咎められなかった,かりに女が望んでいないとしても。  
よしと男は赤い顔で一気に攻める。  
前進する両手に応戦なし。 240
反応がなくても男は気にせず,  
無関心を歓迎する。  
(そしてわたくしことティレシアス,この寝椅子だか寝床で行われたことと  
かつて同じ目に遭った。  
テーバイの城壁の下に座し  
無残な死者たちのあいだを歩いていたわたしは。)  
横柄な接吻を最後にひとつ決め,  
男は縦に手探りし,階段に目をやって照明が消えていることを確かめる……  
   
 女は振りむいてすこし鏡を覗く,  
帰っていった男を思っているのではない。 250
言葉になる前の思いが彼女の脳を過ぎる。  
「ああ済んだ,終わってよかった」  
かわいい女がはしたない騒ぎを終えて  
ひとりで部屋を歩くときは,  
手が勝手に髪を梳き,  
蓄音機にレコードを置くものだ。  
   
 「あれは,水面に漂っていたわたしに,波を伝って聞こえてきた歌だ」  
そして,ヴィクトリア女王通りを越えてストランドにも。  
おおシティーじゃ,シティー,下テムズ通りにある  
酒場の前を通りかかると,わたしには 260
小気味良いマンドリンの音や  
食器の音,大きな話し声が聞こえることがある。  
漁師たちの正午の憩い。その近くでは,  
殉教者マグヌス教会の内壁が  
言うに言われぬ壮麗なイオニア調の白と金を湛えている。  
   
     油とタールは  
     この河の汗  
     艀は満ち干に  
     持ってかれるよ  
     赤い帆よ 270
     広がって  
     丈夫な柱で風下へ跳ねあがれ。  
     艀ざぶざぶ  
     丸太を運ぶ  
     グリニッジあたりまで  
     ドッグズ島を過ぎて。  
          ワヤラーラ ラーヤ  
          ウォララー ラヤーララ  
   
     櫂を漕ぐ  
     エリザベスとレスター 280
     船のうしろに  
     光る貝殻模様  
     赤と金色  
     両岸に  
     ぶつかる引き波  
     南西の風が  
     流れを運ぶ  
     鐘の音  
     白い塔  
          ワヤラーラ ラーヤ 290
          ウォララー ラヤーララ  
   
     「ろめんでんしゃと すすだらけの こだち。  
     ハイベリーが わたしを うんだ。リッチモンドと キューが  
     わたしを ほろぼした。リッチモンド あたりで  
     わたしは まるき ぶねの きゅうくつな ゆかで あおむけに もろひざを あげた」  
   
     「わたしの あし いま ムーアゲートを いく しんぞうは  
     あしの した。その おとこ ことを すませて  
     さめざめと ないた。『あらたな はじまり』を やくそくしていた。  
     わたしは なにも いわなかった。おこっても どうにも ならない」  
   
     「いま マーゲート・サンズ。 300
     もう なにを なににも,  
     つなげない。  
     りょうて きたない つめ われた。  
     わが たみ つつましき たみ なにも  
     のぞまず」  
               ララ  
   
     さうして我カルタゴに至れり  
   
     一切は燃えてあり燃えてあり燃えてあり燃えてあり  
     あな主よ汝我を悪から摘みだしたまふ  
     あな主よ汝摘みだしたまふ 310
   
     燃えてあり  

IV. 水死

フェニキア人フレバス,骸となりて十日余り四日,  
鴎の声を忘れた。深い海のうねりも  
損得も忘れた。  
          海のなかの流れが  
男の骨を外すとき,かすかな声を立てた。波を上がり,下がるたび,  
男は老け,若返り,  
あの渦に入っていった。  
          バアルの神を奉ずる者もユダヤの民も,  
ああ汝ら舵の輪を取り風上に向く者よ, 320
フレバスを思へ,そのかつて見目麗しく背丈誇りしこと汝らの如し。  

V. 雷はこう言った

 汗だくの人々の顔を松明が赤く照らしたあと  
沈黙が庭々で凍てついたあと  
石くれだらけの地で悲痛に沈んだあと  
怒号と嗚咽  
牢獄と宮殿と  
遠くの山々から聞こえる春の雷鳴  
生きていたあのかたはお亡くなりになった  
生きていた私たちも先が長くない  
もはや気力は乏しい 320
   
 ここには水がない岩しかない  
岩ばかり水はない乾いた砂の道  
上空で水のない岩山を縫う  
曲がりくねった道  
もし水があれば私たちは止まって飲むだろうが  
止まれない考えられない岩のあいだにいると  
汗が乾き足が砂に沈む  
もし岩のあいだに水がありさえすれば  
もはや唾を吐くことのない死んだ山の虫歯で朽ちた火口  
ここでは立っても寝ても座ってもいられない 340
山には静寂すらない  
雨のない不毛な雷が鳴る  
山には孤独すらない  
ひび割れた泥の家々の扉から  
日に焼けた不機嫌な顔が私たちを嘲り怒鳴る  
                           もし水があれば  
 そして岩がなければ  
 もし岩があれば  
 そして水も  
 そして水  
 泉 350
 岩に水溜りでもあれば  
 せめて水の音でも聞こえれば  
 セミでなく  
 枯草がそよぐ音でもなく  
 ツグミが松の木で鳴く岩に落ちる  
 水の音  
 ぴたぽたぴたぽたぽたぽたぽたぽた  
 けれど水がない  
   
 いつもおまえの横を歩いている三人目の奴は誰だ  
数えたら,おまえとおれしかいないけど 360
この白い道の先を見上げると  
いつもおまえの隣にだれか歩いてる  
茶色のマントと頭巾をすっぽり被って流れるようについてくる  
男か女かも分からないけど  
──おまえのそっち側にいる奴は誰だ  
   
 空高くに聞こえるあの音はなんだ  
母の悲痛な呟き  
はてしない平野を頭巾を被って歩いてる  
あいつらは何者だ,地平線しか区切るものがない  
このひび割れた大地をつまづきながら行く 370
山の上にある町はなんだ  
菫色の空で,ひび割れ,元に戻り,破裂する  
塔が崩れる  
イェルサレムアテネアレキサンドリア  
ヴィーン,ロンドン  
現実でない  
   
 女が長い黒髪をぎゅっと引っぱって弓で弾いて  
息が洩れるような曲を奏でました  
そして赤んぼうの顔をした蝙蝠たちが菫色の光に  
口笛を吹き,羽根を打ち, 380
頭を下にして煤まみれの壁を這いおりました  
そして空には逆さになった塔が  
追憶の鐘を鳴らして,時を刻みました  
すると干上がった溜池や枯れた井戸から歌声が聞こえてきたんです。  
   
 山が崩れたこの穴に  
わずかに月の光が入り,礼拝堂のあたり,  
倒れた墓のまわりで草が歌っています  
だれも来なくなった礼拝堂があります,風だけが集まってきます  
窓がなく,扉が揺れ,  
乾いた骨はだれを怖がらせることもできません。 390
ただ屋根に鶏が立っていました  
ココリコ,ココリコ  
稲妻のなかで。すると湿った風が  
雨の気配を運んで来ました  
   
 ガンジスの流れは痩せ,萎れた葉が  
雨を待っていたとき,遠くヒマラヤ上空に  
黒い雲が立った。  
森は静まり背を丸め首を引いた。  
そのとき雷が喋った  
DA 400
Datta:わたしたちはなにを施した  
友よ,わが心臓を震わせる血潮  
なにもかも放りだして一瞬で降伏すること  
分別ある年齢でも止められない無謀な降伏  
それによって,それだけによって,私たちは生きのびてきた  
それは死亡記事に載らないし  
寛大な蜘蛛の巣で飾られた思い出にも  
私たちがいなくなった部屋で痩せた弁護士が開く  
封印の下にも見つからない  
DA 410
Dayadhvam:扉の鍵が一度  
回る音を私は聞いたことがある,たった一度しか回らない鍵が  
私たちはその鍵のことを考えている,それぞれが牢獄で  
鍵のことを考えている,それぞれが夕暮れにだけ  
牢獄にいることを思いだす,エーテルの織りなす噂が  
ほんの一時できそこないのコリオレイナスを蘇らせる  
DA  
Damyata:帆を捌き櫂を漕ぐ熟練の手に,船は  
快く反応した  
海は穏やかで,おまえだってもし来ていれば,心臓が 420
快く反応していたことだろう,指揮を取る手に従って  
櫂を漕いでいたことだろう  
   
                    わたしは岸に座って  
釣をしていました,干上がった平野に背を向けて  
わたしは,わたしの土地に,すくなくとも秩序をもたらすことになるのでしょうか  
ロンドン橋が落ちそう落ちそう落ちそう  
カレハヒトヲキヨメルホノオニミヲカクシタ  
ワタシハイツツバメノヨウニナルノダロウカ──おお燕だ燕  
アレハテタトウニあきてーぬコウガ  
こんな言葉で,わたしは崩れそうな廃墟を支えてきました 430
さればこのたびは汝らに応へんとす。ヒエロニモはまた気を違へたり。  
Datta. Dayadhvam. Damyata.  
          Shantih shantih shantih  
 
 
 
 
 
 
 

荒地への註

この詩の題名のみならず,構想も,それから偶発的な象徴主義のかなりの部分も,聖杯伝説についてのジェシーL・ウェストン女史の著作『祭祀からロマンスへ』(ケンブリッジ)に示唆を得ています。実際,わたくしはあまりに多くを負うているので,わたくしがどんな註を書いたところで,それよりウェストン女史の本のほうがこの詩の厄介な諸点を手際よく解明してくださることでしょう。ですから,そのように手間をかけて解読するだけの値打ちがこの詩にあるとお考えくださるかたにはどなたにも,わたくしはこの本を(この本自体がとても興味深いということを別にして)お勧めしています。全般にわたってわたくしは,もう一冊の人類学の本に負うています。それは,わたくしたちの世代に深い影響を及ぼしてきた著作,『金枝篇』です。わたくしはとりわけ『アドニス,アッティス,オシリス』の二巻を用いています。これらの著作にお馴染みの読者は,この詩のなかに,植物の儀式への言及があるとただちにお気づきになることでしょう。

I. 死者を埋める

20 行. 「エゼキエル書 2 1 節を参照。

23 行. 「コヘレトの言葉」 12 5 節を参照。

31 行. 「トリスタンとイゾルデ」,第 1 幕第 5-8 行から引用。

31 行. 同上,第 3 幕第 24 行から引用。

46 行. 一揃いのタロットがどんなカードから成るのかに,わたくしは通じているわけでなく,ご覧のように,ここではわたくしの都合に合わせて正確な構成から距離を置いています。伝統的なタロットに含まれる「逆さ吊りの男」は,ふたつの理由で,わたくしの目的に適っています。ひとつは,わたくしにとってその男が,フレイザーの言う「吊るし首に処された神」に結びついていると思えてならないからであり,もうひとつは,わたくしがその男を,第 V 部でエマオを目指す使徒たちを描いた箇所に現れる,頭巾を被った人物に結びつけているからです。「フェニキア人の水夫」と「商人」とは,のちに登場します。「大勢の人」も。そして,「水死」は,第 IV 部で執行されます。「三本の竿を持つ男」(実際にタロット・カードに含まれています)を,わたしはまったく恣意的に,「漁夫王」自身に結びつけています。

60 行. ボードレールを参照:
'Fourmillante cité, cité pleine de rêves,
'Où le spectre en plein jour raccroche le passant.'

63 行. 「地獄篇」第 3 曲第 55-57 行を参照:
                    sì lunga tratta
di gente, ch'i' non avrei creduto
che morte tanta n'avesse disfatta.

64 行. 「地獄篇」第 4 曲第 25-27 行を参照:
Quivi, secondo che per ascoltare,
non avea pianto mai che di sospiri
che l'aura etterna facevan tremare

68 行. わたくしがしばしば気づいた現象。

74 行. ウェブスター『白い悪魔』の葬送歌を参照。

76 行. ボードレール悪の華』序文から引用。

II. チェスを一局

77 行. 『アントニークレオパトラ』,第 2 幕第 2 場第 190 行を参照。

93 行. Laquearia.『アエネーイス』,第 726 行から引用:
       dependent lychni laquearibus aureis
incensi, et noctem flammis funalia vincunt.

98 行. 森の景色.ミルトン『失楽園』,第 4 巻第 140 行から引用。

99 行. オウィディウス『変身物語』,第 4 巻ピロメラから引用。

100 行. 第 III 部第 204 行を参照。

115 行. 第 III 部第 195 行を参照。

118 行. ウェブスターを参照:「あの扉の風は止まっているか」

126 行. 第 I 部第 37 行,第 48 行を参照。

138 行. ミドルトン『女は女に心せよ』におけるチェスの対局を参照。

III. 燃える火の教え

176 行. スペンサー「プロサレイミオン」から引用。

192 行. 『テンペスト』,第 1 幕第 2 場を参照。

196 行. マーヴェル「はにかむ恋人へ」を参照。

197 行. デイ「蜂の議会」を参照:
「急に,耳を澄ませば,
「角笛と狩りの音が聞こえることでしょう,
「アクタイオンがディアナのいる泉に行くのでしょう,
「そこで皆ディアナの裸を目にするでしょう...」

199 行. この行の引用元であるバラッドの起源を,わたくしは存じません。わたくしのもとには,オーストラリアのシドニーから伝わってきました。

202 行. ヴェルレーヌパルジファル」から引用。

210 行. 干葡萄には,「保険(insurance)およびロンドンまでの輸送(freight)の費用(cost)」込みの価格がつけられています。また,船荷証券などの文書は一覧払手形と交換で手渡されます。

218 行. ティレシアスは,傍観者にすぎず,「登場人物」と言いがたいものの,この詩でもっとも重要な人物であり,他のすべての人物を結びつけています。干葡萄を売っている隻眼の商人がフェニキア人の船乗りに融合し,後者がナポリの王子ファーディナンドと完全には区別がつかないように,すべての女性はひとりの女性であり,そして両性がティレシアスで出会います。ティレシアスが見ているものは,実際のところ,この詩の本質です。オウィディウスの次の一節は,人類学的な興味を大いに喚起します:
... Cum Iunone iocos et 'maior vestra profecto est
Quam quae contingit maribus', dixisse, 'voluptas.'
Illa negat; placuit quae sit sententia docti
Quaerere Tiresiae: Venus huic erat utraque nota.
Nam duo magnorum viridi coeuntia silva
Corpora serpentum baculi violaverat ictu
Deque viro factus, mirabile, femina septem
Egerat autumnos; octavo rursus eosdem
Vidit, et 'est vestrae si tanta potentia plagae',
Dixit, 'ut auctoris sortem in contraria mutet,
Nunc quoque vos feriam!' percussis anguibus isdem
Forma prior rediit genetivaque venit imago.
Arbiter hic igitur sumptus de lite iocosa
Dicta Iovis firmat; gravius Saturnia iusto
Nec pro materia fertur doluisse suique
Iudicis aeterna damnavit lumina nocte,
At pater omnipotens (neque enim licet inrita cuiquam
Facta dei fecisse deo) pro lumine adempto
Scire futura dedit poenamque levavit honore.

221 行. この箇所は見かけのうえではサッフォーの詩句と正確に一致していないかもしれませんが,「沿岸」の,あるいは「小さな漁船」の漁師をわたくしは思いうかべていました。その漁師は,夕暮れに帰ってきます。

253 行. ゴールド・スミス『ウェイクフィールドの牧師』の歌から引用。

257 行. 『テンペスト』,第 1 幕第 2 場から引用。

264 行. 殉教者マグヌス教会の内装は,レンの手がけた内装でもっとも美しいもののひとつであると,わたくしには思えます。『十九の都市部教会を取りこわす提案』(P. S. キング社)参照。

266 行. ここから(三人の)テムズの乙女たちの歌が始まります。292 行から 306 行までは,彼女たちが順番に喋っています。『神々の黄昏』,第 3 幕第 1 場,ラインの乙女たちから引用。

279行.フルード『ウルジーの失脚からエリザベスの崩御に至るイングランドの歴史』,第 I 巻第 iv 章,デ・クアドラがスペイン王フェリペ二世に宛てた書簡から引用:
「その午後,わたくしどもは遊覧船に乗って,川面で行われた余興を見ました。船尾楼で,女王がレスター伯とわたくしとだけになりましたとき,御二方がたわいないお話をなさったのち,ついにレスター伯がわたくしの目前で,『女王陛下がお望みなさいますならば,陛下とわたくしとが結婚してならぬ理由はなにもございません』と仰いました」

293 行. 「煉獄篇」第 5 曲第 133 行を参照:
'Ricorditi di me, che son la Pia;
'Siena mi fé, disfecemi Maremma.'

307 行. 聖アウグスティヌス『告白』から引用:「さうして我カルタゴに至れり,そこでけがらはしき色恋の歌に囲まれたり」

308 行. この箇所の引用元である,ブッダによる火の説教(それは重要性において山上の垂訓に対応しています)の全文は,故ヘンリー・クラーク・ウォレンの『翻訳で読む仏教』(ハーヴァード東洋叢書)に収録されています。ウォレン氏は,西洋における仏教研究の偉大な先駆者のひとりでした。

309 行. ふたたびアウグスティヌスの『告白』から。この詩の第 III 部の最高潮で,東洋と西洋とを代表するの禁欲主義を並置したことは,偶然ではありません。

V. 雷はこう言った

V 部の最初の部分には,みっつの主題を取りこみました:エマオへの旅路,「危ない礼拝堂」への接近(ウェストン女史の著作を参照),そして今日における東欧の衰退です。

357 行. これはチャイロコツグミ Turdus aonalaschkae pallasii の鳴声で,わたくしはケベック州で聞いたことがあります。チャップマンは,「この鳥は,人里から離れた森の薮の繁みにいることが最も多い。... その鳴声は,種類や音量で際立った点がないものの,純粋さや甘美さ,繊細な抑揚といった点で匹敵するものがない」(『北米東部の野鳥の手帳』)と述べています。当然,その「水がしたたるような鳴声」も称賛されています。

360 行. これ以下の行は,南極探検隊の報告のひとつに示唆を受けました(どの探検隊のものであったかをはっきりと覚えていませんが,シャクルトン探検隊のものであったと思います):最後の力をふりしぼっているとき,探検隊は,実際の人数より隊員がひとり多いという錯覚にたえず陥ったという記述が報告書にありました。

366-76 行. ヘルマン・ヘッセ『混沌を覗いてみると』を参照:'Schon ist halb Europa, schon ist zumindest der halbe Osten Europas auf dem Wege zum Chaos, fährt betrunken im heiligem Wahn am Abgrund entlang und singt dazu, singt betrunken und hymnisch wie Dmitri Karamasoff sang. Über diese Lieder lacht der Bürger beleidigt, der Heilige und Seher hört sie mit Tränen.'

401 行. 'Datta, dayadhvam, damyata' (施せ,慈悲の心を持て,慎め)。雷鳴の意味についての寓話は,『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』第 5 巻第 1 章に見られます。ドイッセンの『ヴェーダの六十のウパニシャッド p. 489 に,翻訳が掲載されています。

407 行. ウェブスター『白い悪魔』,第 1 幕第 2 場を参照:
            「...女どもはすぐに再婚する,
亡くなった亭主をくるんだ骸衣に虫の穴が開くより先に,墓銘碑に
蜘蛛の薄い垂れ幕が下りるより先に。」

411 行. 「地獄篇」第 33 曲第 46 行を参照:
'e io senti' chiavar l'uscio di sotto
  a l'orribile torre.'

また,F. H. ブラッドリー『外観と実在』,p. 306 を参照
「私が考えていることや私が抱いている感情が私秘的であるのと同じように,外界にたいする私の感覚は私秘的である。わたしがなにかを考えていたりなんらかの感情を抱いている場合,私の経験は私の輪のなかにあり,その輪は外にたいして閉じている。そして,各々の輪が同様であるから,どの輪も,それを取りかこむ他のすべての輪にとって不透明である。...つまり,世界の全体は,魂に現れる存在であると見なされるので,それぞれの魂にとっての世界の全体は,その魂にとって独特であり私秘的である。」

424 行. ウェストン『祭祀からロマンスへ』,漁夫王の章から引用。

427 行. 「煉獄篇」第 26 曲第 148 行から引用。
'"Ara vos prec per aquella valor
"que vos guida al som de l'escalina,
"sovenha vos a temps de ma dolor."
Poi s'ascose nel foco che li affina.'

428 行. 「ヴィーナスの前夜祭」から引用。第 II 部および第 III 部のピロメラ参照。

429 行. ジェラール・ドゥ・ネルヴァル,十四行詩「廃嫡者」から引用。

431 行. キッド『スペインの悲劇』から引用。

433 行. shantih (安らかに)。このように繰りかえすのが,ウパニシャッドの正式な終わりかたです。わたしたちの言葉に置きかえると「知性を越えた安楽」という語です。

さもしいのは政党交付金をもらっている政党です

みなさんは,わからないことをインターネットで調べるとき,ウィキペディアを読むことがありませんか? ウィキペディア日本語版には,「政党交付金」という項目があります。
https://ja.wikipedia.org/wiki/政党交付金

もし日本語版以外のウィキペディアに「政党交付金」という項目があるならば,そのページに他言語版の該当ページへリンクが張ってあるはずです。いま見ると,リンクが張られているのは中国語版だけです。そこでは,中国語で,日本の「政党交付金」について記述されています。あれ? もしかして「政党交付金」って日本にしかない制度なの? いえ,そういう制度がある国は,日本以外にも存在します。しかし,その総額においても,一人あたりの負担額においても,日本の政党交付金は例外的です。

負担額は,選挙権のない赤ん坊も外国人も全員数えて,とにかく 1 人あたり 250 円ずつ。総額で 300 億円強。一方,国会議員の総数は衆参あわせて 710 人ですから,国会議員 1 人あたり平均 4000 万円強の金額が毎年政党に配分されます。それは,国会議員の給料ではありません。国会議員には,いわゆるボーナスを含めて年間 2000 万円強の歳費が支給されています。それと別に,議員 1 人あたり秘書 3 名の給与が年間総額 2500 万円ほど国から支払われます。それらと別に,「文書通信交通滞在費」が議員 1 人あたり 1200 万円だけ国から支給されます。それと別に,JR の鉄道およびバスに無料で乗車できる特別乗車券が議員に支給されるほか,選挙区が東京から遠い議員には航空券が支給されます。それらと別に,院内会派にたいして立法事務費として議員 1 人あたり年間 780 万円が支給されます。政党交付金は,さらにそれらと別に国から政党に交付されるもので,その額が議員 1 人あたり 4000 万円ほどです。

政治活動には,お金がかかります。政党が自党の議員のいない選挙区に候補者を擁立するためには,政党が,議員と別口で一定の資金を持っている必要があります。では,政党交付金の制度がない国の政党は,どのようにしてその資金を得ているか。ひとつは,党員から定期的に徴収する党費です。もうひとつは,募金(募金に応じることを献金または寄附といいます)。そのほかに,政党機関誌紙などの利益が政党の活動費に充てられます。党費の徴収や政党による募金,機関紙の発行は,日本でも行われているので,日本の政党は,それらや政党交付金などを収入として計上しています。たとえば,令和元年度の自由民主党本部の収入内訳は,次のとおりです。
https://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS20201127/SF/000050.html

(1) 党費 9 億 9085 万 8400 円
(2) 寄附 27 億 4339 万 0000 円
(3) 機関紙,事業 3 億 5884 万 8475 円
(4) 借入金     0 円
(5) 支部からの供与   1000 万 0000 円
(6) その他      
  政党交付金 176 億 4771 万 8000 円
  立法事務費 26 億 8717 万 0000 円
  旅費等精算   5243 万 1989 円
合計 244 億 9041 万 6864 円

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  党費      寄附      事業      支部
  政党交付金      立法事務費      精算

自由民主党の収入に占める政党交付金の割合は 72 % です。同じように国から支給される立法事務費をあわせると,国からの交付金が収入に占める割合は 83 % に上ります。家計にたとえて言うならば,月に 30 万円の収入のうち 25 万円が国から支給されているのと同じ割合です。

政治活動にお金がかかるのはしかたありませんが,自由民主党はこの程度の収入を自分で稼げないでしょうか。単純な計算では,もし国民の 10 % が年間 2000 円の党費を自由民主党に支払えば,自民党はいまと同じ程度の収入を得ることができます。なぜ自由民主党は,そちらに舵を切らないのでしょうか。

そのひとつの答えは,いままで自由民主党は国民に寄附を求めずにやってきたから,いまさら寄附を求めても十分な収入が得られない,ということです。ここで注意しておきたいのは,日本に寄附という習慣がないわけでないという点です。たとえば,令和元年度の日本赤十字社の一般会計(病院事業や献血事業などを除いた会計)において,その収入は 491 億円であり,そのうち赤十字社員などからの定期的な寄附が 247 億円,一時的な災害義援金が 127 億円であり,公的な補助は 10 億円でした。また,令和 2 年度に日本ユニセフ協会に寄せられた寄附は,総額 224 億円でした。そういった団体と同程度の寄附を募るのに,自由民主党は消極的です。

1994 年に政党交付金の制度が導入されるまで,自由民主党は,企業からの献金(寄附)をおもな収入源としていました。企業献金のおかげで,自由民主党は,国民に寄附を求めることなく,十分な収入を得ていました。ところが,その企業献金に,素性の悪いものが混ざっていました。国や地方公共団体がお金を出して道路を整備したり橋を架けたりするとき,その工事を請けおう企業は,談合をして工事費用を高めに見積もるのがふつうでした。談合とは話しあいのことですが,ここでは,正直者が抜けがけをして安い予算で工事を請けおうのを,非正直者が防ぐための話しあいです。そういった話しあいをして工事費用を高めに請求することは,いまもむかしも犯罪です。従来,談合は,土木業界のよからぬ風習といわれてきました。しかし,彼らは,逮捕されるのをおそれてびくびくしながら談合していたわけではありません。国の大きな事業であれば,彼らは晴れがましい立派な会場で談合をしていましたし,市町村の小さな事業では,役所の建物の一室で談合を行うことさえありました。犯罪者たちが犯罪を行うのに,わざわざ警察署の一室に集まって相談をするという事態は考えにくいのですが,現実にはそれに似たことが行われていました。土木業者たちは,すすんで悪知恵をはたらかせて談合をしていたというより,談合をする制度に組みこまれていました。彼らは,国や地方公共団体から高めにせしめたお金のうち,1 パーセントから数パーセントを自由民主党献金するように求められていました。かりに彼らが献金を断ったならば,彼らは次から公共事業を請けおう資格を剥奪されたことでしょう。

このような事例における,お金の流れを整理しておきましょう。まず,国民が税金を支払います。かりに自由民主党が,その税金を自分のものにしたら,それは犯罪です。政府が国民から徴収した税金のうちどれくらいの金額を公共事業に使うかを,提案するのは政府であり,決定するのは国会です。自由民主党は,長いあいだ,その政府や国会を支配していました。かりに彼らが,公共事業の予算をわざと多めに設定して,土木業者に高めの金額を請求させるとしましょう。その土木業者が,あとでかならず自由民主党献金するとわかっているならば,自民党には,予算をわざと多めに設定する動機が生じます。では,かりに彼らがわざとそうしたら,それは犯罪でしょうか。

そういったお金の流れは,資金洗浄(マネー・ロンダリング)を思わせます。しかし,実定法においては,犯罪によって手に入れたお金を迂回させてふたたび手にした者が,罪に問われます。上のような事例では,談合をした土木業者と,そのお金の一部を受けとる自由民主党とが,異なります。かりに上の事例で自由民主党資金洗浄の罪に問われることがあるとするならば,冒頭の談合に自民党が関与していなければなりません。かりに自由民主党が土木事業者に談合をするように呼びかけ,彼らが多めに手にしたお金の一部を自民党献金するように求め,もし裏切ったならば公共事業から排除すると脅した結果,自民党がその土木業者から献金を受けた場合,それは犯罪です。平時において,法廷の場で検察官がそれを立証することはむつかしいでしょう。そんな文書一式が残っているはずがないからです。文書がなければ,関係者がそういった行為を自白しなければなりません。そんなことは,めったに起きそうにありません。

ちなみに,公共事業で民間業者が国にたいして高めの請求をして,そのお金の一部を政治家に手渡すという手法は,韓国のソウル地下鉄建設工事で行われたと,キム・ヒョンウク(金炯旭)が証言しています。彼は,韓国の諜報機関で要職についていましたが,引退して国会議員になったあとパク・チョンヒ(朴正煕)大統領と対立して米国に亡命しました。亡命後,彼はパク・チョンヒ政権の腐敗を告発する手記を残しました。それらの腐敗のなかで,ソウル地下鉄建設工事は,日本に関係しています。韓国政府は,首都ソウルに地下鉄を建設するための調査を 1960 年代末に開始し,いったんフランスに発注すると内定しました。ところが,1970 年代に日本が逆転してその工事を受注しました。日本政府は,その工事のために円借款を組みました(つまり,工事費用ははじめ日本が建てかえて,あとで韓国に返してもらう方式です)。1960 年代に日本が新幹線を建設したとき,国内で資金を調達できずに世界銀行から借金したことを思いだすと,10 年たらずで日本は他国に大金を貸せる国になっていました。日本から韓国に渡ったお金は,工事を請けおった日本企業に支払われました。その総額は,当時の金額で 185 億円。そのうち,9 億 7200 万円が日本企業からパク・チョンヒの側近に送金されたと,キム・ヒョンウクは記しています。つまり,日本政府が建てかえて,あとで韓国国民が返済することになるお金のうち,およそ 10 億円が,パク大統領の政治資金になりました。キムによれば,それは,10 億円という額より,受注額の 5 % という割合を根拠にしていたといいます。この時期にパク大統領は,大統領の任期を撤廃して彼自身が終身大統領になる道を拓くとともに,反対勢力を厳しく弾圧しました(金大中事件はその一例であり,また,手記を発表したキム・ヒョンウクは行方不明となっていまにいたるまで彼の遺体は発見されていません)。日本企業を指揮してパク政権に献金させた日本側の政治家は,岸信介です。岸は,パク大統領とともに国際勝共連合を支持し,反共産主義のパク大統領による韓国統治が長く続くことを望んでいました。

この事例で怪しげなお金を手にしたのは韓国の大統領ですが,日本政府による政府開発援助や国内の公共事業で,同様の手法によって日本企業から自由民主党にお金が流れました。1970 年代に,それは合法でした。韓国の事例で察せられるように,お金がそのように流れる仕組みを作ったのは,企業というより政治家であると考えるのが自然です。

ここで,パク大統領はなぜ韓国国民に寄附を求めなかったのかと問うてみましょう。推進したい政策があれば,大統領はそれを国民に訴えて寄附を求めればよかったではないか,と。それはナイーヴな質問です。当時の事情を知るひとならば,彼は自国民に寄附を求められるような大統領でなかったと答えることでしょう。韓国陸軍の将軍であったパク・チョンヒは,1961 年にクー・デタによって(つまり非合法に)国家再建最高会議議長に就きました。このクー・デタは米国に後押しされていたと見られます。その時期に北朝鮮が経済成長を始めていたので,韓国国民が北朝鮮共産主義に憧れをもつかもしれませんでした。ソ連や中国の影響力を殺ぐという使命を帯びたパク大統領にとって,はじめの 10 年間の課題は,韓国経済の成長でした。パク政権は,北朝鮮の計画経済の手法を真似て,のちに「漢江の奇跡」と称される経済成長の最初の部分を実現しました(ちなみに,満洲国で行われた計画経済には岸信介が関与していました)。非合法な手段で地位を獲得し,言論の自由を制限して国内の共産主義者を弾圧し,そのことによって米国の国益を守っている大統領が,自国民から心からの支持を得ることは困難です。韓国国民がパク政権を支持していたとしても,彼らの大半にとってその理由は,経済政策によって生活水準が向上したからという消極的なものにすぎませんでした。1970 年代を迎えると,パク大統領は,共産主義者の取りしまりにとどまらず,自分にとって都合の悪い者や自分に従わない仲間を弾圧しはじめました。それは客観的に見ると独裁体制の強化ですが,パク大統領自身はそれを「維新」と称しました。その結果,パク大統領に,1974 年,1979 年の 2 回銃弾が放たれました。1974 年の暗殺未遂事件では,大統領自身は難を逃れましたが,夫人が被弾して死亡。1979 年に大統領は部下に暗殺されました。パク大統領は,国民になにかを与えるからかろうじて国民に支持されていたのであり,逆に大統領が自分の政治活動をまかなうのに十分な寄附を国民に求めることなど,彼自身が思いつかなかったことでしょう。なお付記しておくと,韓国ではその後 1980 年代に大規模な民主化運動が起こり,今日の韓国はここで述べたパク・チョンヒ時代の韓国と異なります。

話を日本に戻すと,自由民主党もまた,広く国民から寄附を募ることをためらって,とりやすいところからお金をとっていました。令和 2 年度の日本の国家予算で,公共事業費は 6.1 兆円。ただしこの額には,役所内の人件費などが含まれています。令和 2 年度の日本の土木業界の売上合計は 2.1 兆円でした。そのすべてではありませんが,主要な部分は,国や地方公共団体による公共事業です。かりに 2.1 兆円の 1 % を土木業界が自由民主党に寄附するならば,その金額は 210 億円に上ることでしょう。しかし,今日そのような献金は行われていません。1994 年以降,お金を迂回させなくても,政党が国家予算から直接に政党交付金を受けとれるようになったからです。その制度と引きかえに,公共事業を請けおった事業者が政党に献金することが違法であると定められました。日本の政党交付金は,そのように,国政政党による資金洗浄の一変種を解消するための苦肉の策ですから,そんな制度が諸外国に広く見られないのは当然です。

1955 年に自由民主党が結成されたとき,その目的は共産主義(または社会主義)にたいする防波堤となることであるといわれました。しかし,それ以前に岸信介満洲国で,ソ連をお手本にした 5 か年計画にかかわっていました。自由民主党による統治下でさえ,ソ連にならった石油化学コンビナートが政府主導によって日本各地に建設されました。さらに,小泉内閣以来よく聞くようになった経済特区は,もともと中国共産党によるアイデアです。自由民主党は,言葉のうえでは共産主義を否定していますが,その思想や政策に反対してきたわけでなさそうです。1955 年の段階で,彼らにとって共産主義とは,思想や政策というより,ソ連を賛美しソ連に都合のいいように振るまうことを意味していたと考えられます。結党以来 1960 年代末まで自由民主党には米国の中央情報局から政治資金が渡っていたと,米国国務省が 1990 年代に明らかにしました(自由民主党はそのことを否定しています)。その時期,日本にかんする米国の最大の関心は,日本国内にある米軍基地を維持することでした。英国が中国から香港を租借したのは,19 世紀のこと。20 世紀の米国は,沖縄を 25 年から 50 年のうちに日本に返還するつもりであり,それ以外の日本国内の軍事基地を使用するための条約を 10 年ごとに更新するつもりでいました(その日米安保条約では,日本が希望するので米軍が日本国内に駐留するという体裁がとられています)。自由民主党は,米国の期待に応えてその条約を更新し,さらに,どちらか一方がやめると言いださないかぎりわざわざ更新する必要のない条約にそれを格上げしました。そのときの日本の総理大臣は,岸信介でした。

ここで,ふたたびナイーヴな問いを発してみましょう。岸信介は,なぜ日本国民に寄附を求めなかったのでしょうか。米軍にずっと日本にいてほしいのであれば,彼はそのことを国民に訴えて寄附を求めればよかったではないか,と。当時の事情を知るひとならば,彼は自国民に寄附を求められるような総理大臣でなかったと答えることでしょう。米軍が日本に駐留しつづけることを望んでいる日本人など,そのころほとんどいませんでした。国民が岸政権を支持していたとしても,彼らの大半にとってその理由は,生活水準が向上したからという消極的なものにすぎませんでした。

米国国務省によれば,自由民主党にたいする中央情報局の資金供与は 1960 年代末まで続いたといいます(実際には規模を縮小して 1980 年ころまで続いたともいわれます)。日本が経済成長して,米国が資金供与をやめたあと,日本の政治家たちは,政府開発援助や公共事業から迂回した政治献金を受ける手法を編みだしました。その手法が禁じられると,政党交付金という制度が作られました。

自由民主党は,日米安保条約を更新した岸政権のように,いまなお正々堂々と国民にたいして訴えることのできない政策を推進しているのでしょうか。もしそうでないのであれば,自由民主党は,国民に政策を訴えて党員を増やし,寄附を募るべきであるとわたしは思います。昨今の自由民主党政権は,大学にたいして稼げと言ってみたり,生活困窮者が支援を受けることをさもしいと形容したりしているようですが,小人が他人の悪口を言うとたいてい自己紹介になるものです。ちなみに,中国では,共産党が国家を指導すると憲法で定められていて,中国共産党中華人民共和国より上位の存在です。その中国共産党でさえ,国家予算から党費を吸いあげるのでなく,党員から党費を徴収しています。自由民主党は,経済特区中国共産党の真似をするのであれば,党費の徴収法も真似すればいいのにとわたしは思います。

なぜ東アジア諸国と日本とは国際間の歴史で意見が一致しないのか

中国,北朝鮮および韓国は,しばしば,日本との国際的な歴史について,日本と意見が一致しません。前三者は,捏造された歴史観をもっていると日本を非難し,日本もまた同じように前三者を非難します。ある理由があって,そのことは避けられません。

中国共産党は,1927 年から 1949 年まで延々と続いた国民党との内戦のあと,中華人民共和国を樹立しました。かりに共産党が政府の正当性を主張するために内戦での勝利を強調するとすれば,いまの中国人のなかでかつて内戦に敗れた人々やその子孫たちのあいだに苦い感情が呼びおこされることでしょう。共産党は,国民が自分たちの政府を正当化できるように,中国国民党との戦闘の合間に共産党が日本の悪い軍隊をやっつけたと人々に覚えておいてもらう必要があります。今日の中国政府は歴史のなかにちゃんとした理由があって現れたと主張するために,政府は,建国者たちが邪悪な日本軍と戦ったという論理的なてこを必要としています。一方,国民党の指導者たちは台湾に逃れ,台湾島を統治しはじめました。その統治を正当化するために,彼らは,いまなお中国本土の主権をめぐって共産党と戦っているという論理的なてこを利用しました。日本は 1945 年まで台湾島を植民地にしていましたが,台湾人の大半は日本を叩きませんでしたし,いまも叩きません。彼らの政府は,そんな前提を必要としていませんでした。

南北朝鮮もほぼ同じです。第二次大戦後,朝鮮はふたつの国家に分裂しました。ひとつはソ連に,もうひとつは米国に後押しされて。北朝鮮政府は,1945 年まで続いた日本統治のもとで金日成反日ゲリラの指揮官のひとりであったことを理由に,彼が朝鮮の指導者である資格があると訴えました。北朝鮮は 1950 年に韓国と戦争を行い,それが原因で多数の家族が離散しました。北朝鮮政府は,その正当性を誇るのに朝鮮戦争の結果に依拠することができませんでした。南の韓国では,李承晩やそのほかの指導者たちが,朝鮮が日本に併合されていた時期に人々が経験した日本にたいする怒りをかきたてました。それは,独裁にたいする人々の不満をなだめる方策のひとつでした。

中国や朝鮮の人々が 20 世紀前半の日本の所業を非難するとき,彼らが思いうかべている国は,日本人がもっている自己像と,部分的に同じであり,部分的に異なっています。多くの日本人が他国の人々にたいして邪悪であったことを,わたしは否定しません。彼らは一部の日本人にたいしてさえそうだったのであり,国外ではもっとひどかったにちがいありません。1937 年から 38 年にかけての南京大虐殺で数えきれないほどの中国の民間人が日本人兵士たちによって殺害または凌辱されたこと,そのことが国際法に違反していたこと,そして,日本の統治下で朝鮮人が公の場で日本語を喋るように強制され,日本風に改名することを求められたという点で,無数の朝鮮人が屈辱を受けたことに,わたしは謹んで同意します。相当な人数の若い朝鮮人女性が,いわゆる「慰安婦」として,つまり日本人兵士を相手にする合法的な娼婦として搾取されたことを,わたしは真実だと思っています。では,立場によってなぜ諸事実が違うように見えるのか。日本の人々はふつう,それらの事実が,軍隊が政治に干渉した過去の悲劇的な時代に属していると考えていますが,中国や朝鮮の人々は,それらをまさに,彼らが,あるいは彼らの祖先たちが,今日の国家を樹立した理由であると見なしています。それらの事実は,日本人にとって通りすぎた角の向こうにありますが,中国人や朝鮮人,韓国人にとっては今日彼らが立っている土台です。

日本の人々は,異なる土台に立っています。たとえば,日本には F-15 戦闘機数百機と戦車数百台を保有する自衛隊がありますが,ほとんどの日本人は日本に軍隊がないと考えていると言うと,信じがたく聞こえるかもしれません。かりに自衛隊が軍隊でない理由を知りたければ,中世の神学のような難解な議論を習得しなければならないことでしょう。ほとんどの日本人は,米軍が日本に軍事基地を維持している理由は,米国政府が東アジアに橋頭堡を確保しておきたいからというより,まず第三国から日本を防御するためであると考えています。第二次世界大戦後の日本占領期に,米国率いる連合諸国は,二名の首相経験者を含む数名の位の高い日本人政治家たちを,戦争犯罪者として処刑しました。連合諸国はまた,日本に憲法を修正させ,日本が一切の軍事力を持つことを禁じさせました。しかし,数年後,中国と北朝鮮とで共産党が政権を取ると,米国は,戦争犯罪の容疑で逮捕されていたもののまだ処刑されていなかった数名の日本人を釈放しました。解放されたそれらの人々は,潤沢な資金と顕著な好機とを米国にあてがわれて政治や実業の世界で身を立てなおし,ダブル・エージェントになりました。鳩山一郎首相がソ連と平和条約を結ぶのを外務大臣として妨害した重光葵や,日本の領土で米軍が軍事基地を利用できるようにする条約を首相在任時に延長した岸信介は,それらの人々の例です。そのほかに,日本の指導者たちは,日本が軍隊を持つことを禁じていた,そしていまなお禁じている憲法を改訂しないまま,自衛隊を設立しました。政府によれば,この実質的に武装した組織が軍隊でない理由は,国内刑法でいう正当防衛のような条件のもとでしか自衛隊が兵力を用いることができないからであるといいます。有名な政治家たちの一部がダブル・エージェントであったこと,自衛隊が軍隊の別名であることを,日本の人々は認めたがりません。重光外務大臣はジョン・F・ダレスからの圧力に屈して日本とソ連とのあいだに領土紛争があるとでっちあげましたが,ほとんどの日本人は,日本とロシヤとのあいだに領土紛争があるといまも信じていますし,アメリカ人は友人だから米軍が日本に駐留していると,日本は戦争を放棄しているから平和国家であると信じています。

どの国にも,直視するのを避けたいことがあります。ふつうの人々が悲痛な事実を直視しないことを,わたしは非難しません。

しかし,たとえどれほどおぞましい事実であったとしても,国民の指導者たちはそれらを直視しなければなりません。かりに安倍晋三がただの愛国的なブロガーであるならば,彼は好きなことを言う権利があることでしょう。しかし彼は日本の首相でした。彼は日本の人々に,「美しい」祖国を愛せと訴えました。かりに彼が,選挙資金を貰うのと引きかえに軍事基地を米国に提供した岸信介元総理大臣のひとりの孫にすぎないのであれば,彼はなお好きなことをなんでも訴える完全な権利があるとわたしは思います。しかし,彼は岸の孫のひとりであり,首相でした。自分の国は「美しい」と論じたとき,彼は,祖父のひとりが裏切者であることを思いだすべきでした。デマゴギーを利用する側にいる者が,それを信じてはなりません。

アジア諸国のあいだで意見が一致しないことにかんしてわたしが心配である点は,たがいに非難しあっている人々が,歴史を操作した人々の第二,第三世代であることです。第二次世界大戦が終わるまで,日本の人々は,天皇は神の子孫であり,日本は神の国であると教えられていました。しかし戦後,天皇が自分はただの人間存在であると宣言したとき,深刻なことはなにも起こりませんでした。諸国の指導者たちが偏向したどんな歴史を書きかえても,人々はいつでも大丈夫だと,わたしは指導者たちに心から言いたいと思います。

Why do some East Asian nations disagree with Japan on their international histories?

China, North Korea, and South Korea often disagree with Japan over their international histories. The former nations criticize Japan for its falsified view of history and vice versa. That cannot be avoided for a reason.

The Communist Party of China established the People's Republic of China after a lengthy civil war, from 1927 to 1949, with the Nationalist Party. If it stressed the victory to claim the legitimacy of the government, that might arouse bitter emotions among some of its citizens who, or whose ancestors, lost the war. The communist party has to make people remember it defeated the evil army of Japan between the battles with the Chinese Nationalists so that they may justify their government. The present-day Chinese government needs a logical lever that its founders fought against the vicious Japanese army to assert it emerged in history with a good reason. Oppositely the leaders of the Nationalist Party fled to Taiwan and began to rule the island. To legitimate the rule, they utilized a logical lever that they were still fighting communists for sovereignty over mainland China. Although Japan had colonized the island up to 1945, most of the Taiwanese people did not, and do not, bash it. Their government did not need such a premise.

That is almost the same with North and South Koreas. Korea was split into two states after the Second World War, one supported by the U.S.S.R. and the other by the U.S.A. The government of North Korea claimed that Kim Il-sung was qualified to be the leader of the nation because he had been one of the commanders of anti-Japanese guerrillas under Japanese rule until 1945. North Korea went to war against South Korea in 1950, and consequently many families were separated. The government of North Korea could not rely on the outcome of the Korean War to be proud of its legitimacy. In the south Republic of Korea, Rhee Syngman and other leaders stirred up people's anger at Japan which they had experienced while Korea was annexed to Japan. That was one of the ways the leaders calmed people's discontent with their dictatorship.

When Chinese and Korean peoples accuse Japan of its deeds in the first half of the 20th century, the country they have in mind is partly the same as, and partly different from the self-image of Japanese people. I do not deny that many Japanese were evil and vicious to other peoples. They were to some of Japanese, and they must have been worse abroad. I sincerely agree that countless Chinese civilians were murdered or raped by Japanese soldiers in the Nanjing Massacre of 1937-38, which violated international law, and that innumerable Korean people were humiliated under the rule by Japan because they were forced to speak the Japanese language in public and required to rename themselves in Japanese ways. I affirm that a considerable number of young Korean females were exploited as so-called 'comfort women,' or legal prostitutes at brothels to Japanese soldiers. Then why do the facts look different to different sides? Japanese people usually think that those facts belong to the past tragic era when the military interfered in politics, although Chinese and Korean peoples often suppose those are the very reasons why they, or their ancestors, established their present states. The facts lie behind the corner to the Japanese, while they are the fundamental on which Chinese and Korean stand today.

Japanese people stand on a different base. It may sound incredible, for example, that most Japanese do not think their country has a military, although it has the Self-Defense Forces with hundreds of F-15 fighters and tanks. You would have to master abstruse arguments, just like ones in medieval theology, to learn why the Forces are not military. Most Japanese suppose the purpose of the U.S. forces maintaining military bases in Japan is, first of all, to protect the country from third parties, rather than for the foreign government to secure a bridgehead in East Asia. During the occupation of Japan after the Second World War, the U.S.-led Allied Powers executed several high-ranked Japanese politicians, including two former prime ministers, for war crimes. The Allied Powers also made Japan amend the constitution and ban itself from having any military forces. A few years later, however, as communists took powers in China and North Korea, the U.S. freed some of the Japanese suspects who had been arrested under the charge of war crimes and not been executed. The released people were fed with abundant money and remarkable opportunities by the U.S. to reestablish themselves in politics and business, and became double agents. Among them were Shigemitsu Mamoru, who served as Foreign Minister and blocked Prime Minister Hatoyama Ichiro from signing a peace treaty with the U.S.S.R., and Kishi Nobusuke, who extended the pact that enabled the U.S. forces to make use of military bases in Japanese territory when he was Prime Minister. Besides, Japanese leaders set up the Self-Defense Forces without revising the constitution that banned and still bans the country from having a military. According to the government, the substantially armed body is not military because it can resort to force only on the condition similar to self-defense in domestic criminal law. Japanese people do not want to admit some of their famous statesmen were double agents, and that the self-defense force is an alias for the military. Most Japanese people believe that their country has a territorial dispute with Russia, which Foreign Minister Shigemitsu fabricated under pressure from John F. Dulles, as well as that the U.S. Forces are stationed in Japan because Americans are friends of theirs, and that their nation is peaceful because it renounces war.

Every nation has something it would like to avoid facing. I do not criticize ordinary people for not looking squarely at painful facts.

But no matter how abominable facts may be, leaders of a nation must face them. If Abe Shinzo were just a chauvinistic blogger, he would have a right to say what he likes to. However, he was a prime minister of Japan. He appealed to Japanese people to love their 'beautiful' native country. If he were just a grandson of former Prime Minister Kishi Nobusuke, who offered military bases to the U.S. for his campaign finance, I think he would still have a full right to appeal whatever he likes to. But he is a grandson of Kishi's as well as he was a prime minister. When he argued his country was 'beautiful,' he should have remembered one of his grandfathers was a traitor. People who are on the side to utilize demagogy should never believe it.

What worries me about the disagreement among East Asian nations is that those who criticize one another are the second or third generations of those who manipulated the histories. Until the end of the Second World War, Japanese people were taught that their Emperor was a descendant of God and their country was divine. After the War, however, the Emperor declared he was just a human being, and nothing serious followed the declaration. I would like to tell leaders of the nations wholeheartedly that people will be always all right if you rewrite any biased histories.

日本政府が赤字国債を発行しているのは,なんのため

ぼくが子どもだった 1970 年代には,市会議員が支持者たちと温泉などにバス旅行をすることがめずらしくありませんでした。格安の料金で参加した支持者たちが,酒杯を交えて親睦を深め,次の選挙で──自治体選挙でも国政選挙でも──だれに投票すべきか確認できるようにすることが,その旅行の目的でした。今日,議員やその後援団体が支持者の旅費を補填することは違法だと思われますが,当時は合法的でした。ぼくが住んでいたところでは,旅行に行くのは市会議員でしたが,場所によってそれは,町会,村会または区会議員だったかもしれません。所属する政党によって,そんなふうに支持者たちをもてなさない議員もいました。支持者たちを格安旅行に招待する議員は,おもに自由民主党に属していました。

その旅費の不足分は,だれが支払っていたのでしょうか。市会議員には,国会議員から金が渡っていました。国会議員には,派閥の領袖や党本部から。では,派閥の領袖や党本部には,だれから。自由民主党の場合,ひとつは企業やその団体から,もうひとつ,1955 年から 1960 年代半ばまでは米国の中央情報局から資金が流入していました。

自由民主党に寄附をしていた企業は,どんな方法でその資金を工面したのでしょうか。政府が負担する公共事業を請けおう諸企業は,あらかじめ談合して入札額を高く維持し,その見返りに,政府から支払われた額の数パーセントを自由民主党に寄附する習慣がありました。ですから,そういった企業からの寄附の原資は,おもに税金でした。もし公共事業を請けおう企業が,実際に必要な費用より高額で落札し,その差額の一部を自由民主党に寄附することを強制されていたならば,その金の流れは,政党が国の財産を横領する資金洗浄の一種です。だから関係者は口をそろえて,だれも強制されていなかったと言いますが,自由民主党に寄附をしない企業は,落札者を決める談合に参加できませんでした。だから関係者は口をそろえて,談合などなかったと言います。

一方,米国国務省が公開している文書によれば,中央情報局による自由民主党への資金援助は,1960 年代に終わったと示唆されています。米国とソヴェート連邦とのあいだのいわゆる冷戦期に,日本の自由民主党は,米国側の一派閥(サテライト,衛星)として設立され,その趣旨にそって活動しました。第二次世界大戦中に日本軍に物資を調達していた児玉誉士夫は,戦後になお大量のタングステンを所有していて,米軍は,ミサイルを改良するためにそれを欲しがりました。米国の諜報機関が仲介して,児玉はそれを米軍に売却し,それによって彼が得た金を資金の一部にして自由民主党は設立されました。自由民主党は,構成員が結成したというより,諸要因に対処するために党内外の人々が設立したと見うけられます。米国は,米墨戦争で 1848 年にカリフォルニアを獲得したあとも西進を続け,1867 年にロシヤ帝国からアラスカを購入し,1898 年にハワイを併合し,同年米西戦争でフィリピンを植民地とし,1940 年代から 1950 年代にかけて第二次世界大戦ミクロネシアの一部を獲得し,日本および朝鮮半島南部に親米政権を樹立し(一部は直接統治),1960 年代にヴェト・ナム戦争でヴェト・ナムを取るつもりでいました。公開されたその時期の公文書を読むと,南西諸島を含む日本列島にかんする米国政府の最大の関心は,自国の軍事基地を列島に維持しておけるかどうかだったと見受けられます。

自由民主党はそのころ,日本国内の米軍基地を容認するほぼ唯一の政治勢力だったので,米国にとって国政選挙でどうしても勝ってほしい政党でした。自由民主党は,その期待に応じるべく,なりふりかまわず選挙を戦いました。自由民主党の市会議員と行く格安温泉バス旅行は,その一部でした。

1958 年
自由民主党 61.5 % それ以外
1960 年
自由民主党 63.4 % それ以外
1963 年
自由民主党 60.6 % それ以外
1967 年
自由民主党 57.0 % それ以外
1969 年
自由民主党 59.3 % それ以外
1972 年
自由民主党 55.2 % それ以外
1976 年
自由民主党 48.7 % それ以外
1979 年
自由民主党 48.5 % それ以外
1980 年
自由民主党 55.6 % それ以外
1983 年
自由民主党 48.9 % それ以外
1986 年
自由民主党 58.7 % それ以外
1990 年
自由民主党 53.7 % それ以外
1993 年
自由民主党 43.6 % それ以外
1996 年
自由民主党 47.8 % それ以外
2000 年
自由民主党 48.5 % それ以外
2003 年
自由民主党 49.4 % それ以外
2005 年
自由民主党 61.7 % それ以外
2009 年
自民 24.8 % それ以外
2012 年
自由民主党 61.3 % それ以外
2014 年
自由民主党 61.3 % それ以外
2017 年
自由民主党 61.1 % それ以外

自由民主党が,設立以来今日にいたるまで大半の時期に与党であったことを当然であると思っている人々は,ここで述べられていることが奇妙であると思うかもしれません。上の表は,衆議院総選挙の開票直後に,当選者のうち,自由民主党のいわゆる公認候補が占めていた割合を示しています。その割合は,設立からしばらく減少傾向にあり,1970 年代にいったん 50 % を下回り,その後 2000 年代末に至るまで 30 年以上にわたって 50 % の線を前後しています。この期間に,自由民主党が野党であったのは,1993-1994 年および 2009-2012 年だけでした。それ以外の時期には,たとえ 50 % 未満であっても,自由民主党は,無所属で当選した議員を入党させたり他党と連立するなどの多数派工作を行って,与党でありつづけました。支持者たちをもてなしても開票直後の勢力が 50 % を割ることがあったので,自由民主党が与党でなければ困る人々は,不安に駆られたことでしょう。

自由民主党有権者をもてなしつづけ,支持者たちがそれに甘えつづけた結果,日本の多くの有権者のあいだに,政治家にたいするふたつの不幸な誤解が定着したとぼくは思っています。ひとつは,ある種の政治家は,支持者をもてなしてくれるというもの。もうひとつ,あんなに支持者をもてなす政治家は金持ちであり,公表すると問題になる手法でその金を得ているのだろうというもの。1970 年代から 1990 年代にかけて,ロッキード事件リクルート事件東京佐川急便事件などの汚職がたびたび世を賑わせたので,政治家は裏で汚い金を受けとっているものだと確信している有権者が,今日なお少なくありません。しかし,それらの事件で政治家たちに贈られた賄賂は,彼らが手に入れてきた金の,主要な部分でも,典型的な種類でもありませんでした。自由民主党政権時代に政治家を巻きこんで世を騒がせた汚職事件は,立場が不利な諸企業が行政の許認可を左右しようとして起きました。そんなわずかな金の流れと別に,国家予算の一部が国内の公共事業や外国向けの政府開発援助に振りむけられ,その一部が国会議員に寄附されるという大規模な資金洗浄の手法が確立していました。1990 年代に政党交付金制度が設立されたあと,日本の諸政党は,ようやくその資金洗浄に頼る必要がなくなりました。金を迂回させなくても,国庫から直接受けとれるようになったからです。

今日では,政治家が,公共事業を請けおった企業から寄附を受けとることや,支持者をもてなすことが禁じられているという理由で,日本の国政選挙があたかも公正に行われているように言う人々がいます。しかし,政府が 40 年以上にわたって国債を発行していることは,有権者にたいする与党のもてなしであるとぼくは思います。日本政府は,ドル・ショックおよび石油危機を経た 1975 年に赤字国債を発行しました。それ以来,建設国債赤字国債とを合わせた国債の発行残高は,増加しつづけています。

日本の財政法は,次のように規定しています:

国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。

1971 年のドル・ショックや 1973 年の石油危機を経験した日本政府が建設国債を発行したことは,ケインズ経済学(あるいは新古典派総合)を支持する立場に立つならば,合理性を有しています。また,政府が 1975 年に赤字国債を発行したことは,財政法の規定に反していたものの,同じ立場から一定の合理性を有していたと評価することができます。もしそのとき国債が発行されなかったならば不況がいっそう深刻になっていただろうと,ケインズ経済学の支持者ならば主張することでしょう。しかし,それは一時的な手当でなければならず,政府はのちに増税によって借金を返済しなければなりません。政府が 1975 年に赤字国債を発行したとき大蔵大臣であった大平正芳ケインジアンであったかどうかは別にして,彼は,総理大臣になったあと,1979 年に一般消費税(5 %)構想を発表しました。しかし,多くの有権者増税に反対したので,その年の衆議院総選挙で自由民主党議席過半数に達しませんでした。自由民主党の非主流派は,大平のもとで次の選挙に勝てないと確信して,総裁を交代させようとしました。その結果,翌 1980 年にまた衆議院が解散され,その選挙戦の最中に大平総理大臣が病死しました。亡くなった総理大臣を気のどくに思って自由民主党に投票した有権者が多かったので,その選挙で自由民主党過半数議席を得ました。

そのあとしばらく,消費税構想は棚上げされました。鈴木内閣(1980-82)は「増税なき財政再建」を唱えました。中曽根内閣(1982-87)は「大型間接税を導入しない」ことを公約に掲げ,1986 年の衆議院総選挙で自民党過半数を占めました。

1989 年にようやく竹下内閣(1987-89)が消費税(3 %)を導入しましたが,その一方で同内閣は,好景気(バブル景気)で増えた税収をできるだけ借金返済に充てることを怠りました。税収が増えてもその一部は地方交付税として全国にばらまかれ,建設国債が発行されつづけたので,借金残高は増えました。また,多くの有権者が消費税を嫌ったので,1989 年の参議院選挙で自由民主党は敗北し,参議院で野党が過半数を占める「ねじれ」 が生じました。

その後,自由民主党日本社会党および新党さきがけの支持を受けた村山内閣(1994-96 年)のもとで,消費税を 5 % に改定する法律が成立しました。村山内閣の武村大蔵大臣は「日本財政危機宣言」を行い,同内閣に続く橋本内閣(1996-98 年)の期間中,1997 年に 5 % の消費税が実施されました。翌 1998 年の参議院選挙で自由民主党は敗北し,参議院で野党が過半数を占める「ねじれ」 が生じました。

そして,民主党および国民新党が支持する野田内閣(2011-12 年)のもとで,消費税をまず 8 % に,続いて 10 % に段階的に引きあげる法律が成立しました。民主党は 2012 年の衆議院総選挙で敗北し,のちに自由民主党および公明党が支持する第二次安倍内閣のもとで,予定どおり 2014 年に 8 % の消費税が実施されました。その後,安倍内閣は,消費税を 10 % に上げる措置を 2015 年,2017 年と二回にわたって先送りして,ようやく 2019 年に実施しました。

ドル・ショックや石油危機を経た政府が国債を発行したことは,すくなくとも一定の合理性がありましたが,1980 年の鈴木内閣以降今日にいたるすべての内閣が国債を発行してきたことに合理性はあるでしょうか。景気がいいときも悪いときも 40 年以上にわたって毎年国債を発行することを,ケインズ経済学によって正当化することはできません。また,1980 年代以降ケインズ経済学(あるいは新古典派総合)は多数の批判を受けていて,機を見て言を弄ぶ人々は今日たいていそれを支持していません。景気の後退期に政府が借金をして需要を増やすという政策は,需要主導のケインズ経済学の議論から帰結するものであり,それ以外の立場を支持する者は,供給を増やしたり貨幣供給量を増やしたりするという冗談のような政策を提唱すべきでした。依拠する経済学の立場にかかわらず国債発行が容認される場合がもしあるとするならば,それは国が戦争をしている場合です。日本政府も米国政府も,第二次世界大戦中に大量の国債を発行しました。では,1980 年の鈴木内閣以降今日にいたるすべての内閣は,戦争をしていたのでしょうか。

かりにそうだったと仮定します。1980 年に冷戦は続いていました。さらに米ソ冷戦と別に,1979 年にイラン革命および米国大使館人質事件が,1980 年にイラン-イラク戦争が勃発しました。米軍で当時ペルシア湾を担当していたのは,横須賀を母港とする第七艦隊でした。米国は,日本国内にある米軍基地を従来どおり自国の基地と同じように使いつづけたかったと察せられ,日米が軍事同盟を結んでいることを日本側の首脳が再確認するようにたびたび求めました。もし 1980 年代前半に鈴木内閣や中曽根内閣が消費税制度を導入していたならば,自由民主党政権は倒れ,米軍が国内基地を利用するのを規制する政権が日本に誕生していたかもしれません。そのことを防ぐために自由民主党は与党でなければならず,そのために政府が増税を避けて国債を発行したのであれば,政府は,未来の納税者の負担で,当時の有権者から,日本国内における米軍の自由を買ったことになります。もしそうだとすると,鈴木内閣や中曽根内閣はだれと戦争をしていたか。米軍が国内の基地を自由自在に使用していることに反対する日本の有権者と,ということになります。陰謀論者に好まれそうな結論です。

真偽不明の仮定にもとづくのを止めて公開情報に頼るならば,日本政府は米国政府の要請に応えて赤字国債を発行しました。米国の対日貿易収支は 1960 年代後半から赤字となり,米国は日本にたびたび対米輸出制限を求め,日本はそれらに応じました。1980 年代に入ると,米国政府は,日本の対米貿易黒字を抑制するためという名目で,日本政府に「内需拡大」を求めるようになりました。「内需拡大」とは,実質的に,政府が国債を発行するという意味です。当時米国は,国内における財政赤字と国際交易における経常収支の赤字とに悩まされていました。米国政府首脳は,それらが連動していると考えて,それらを「双子の赤字」と呼んでいました。たしかに,マクロ経済学の諸命題から「(経常収支)=(貯蓄-投資)+(租税-政府支出)」という式が導かれるので,政府支出の多い国では経常収支が赤字に傾きがちです。そこで米国政府は,その式を日本経済にあてはめて,日本政府が政府支出を増やすことによって経常収支をマイナス方向に誘導するように求めました。ただ,この式の右辺のよっつの項はたがいに独立でなく,たとえ政府支出を増やしても貯蓄が増えれば経常収支は変わらない可能性があります。しかし,中曽根内閣は,そんなことに目をつむって国債を発行しつづけました。

しかし,真偽不明の仮定にもとづくのを止め,ほとんどの人々が忘れている公開情報に頼るのも止めて,日本政府が 40 年以上にわたって国債を発行しつづけている目的を,あらためて問いましょう。もしそれが,短期の財政出動による有効需要の創出,つまり,景気浮揚策であるならば,国債発行は,ケインズ新古典派総合の経済理論によって正当化されますが,だからといって,それらの理論が,40 年以上にわたる国債の発行を正当化するわけではありません。さらに言えば,米国がヴェト・ナム戦争後に直面した国内のスタグフレーションを,それらの理論が解決できなかったので,米国内でそれらの権威が傷つき,その影響で,日本国内でもそれらの信奉者は激減しました。ですから,政策立案者が,なんらかの理論を誤って応用し,国債を発行してきたわけではありません。1980 年代に米国政府が日本政府に「内需拡大」を要請したことは事実ですが,もし日本が独立国家であれば,日本政府はそれを断ることができたはずです。それに,米国政府は 40 年以上にわたってずっと国債発行を要請してきたわけではありません。結局のところ,日本の政策立案者が恣意的に国債を発行してきたと言う以外にありません。その政策立案者とは,政治家か,それとも官僚か。旧大蔵省や財務省の職員を中心とする官僚が国債を継続的に発行しようとする動機はありません。むしろ彼らはしばしば,政府が増税をして国債発行を止めるように政治家たちにはたらきかけました。では,政治家たちが,経済学の理論と官僚の助言とを無視し,ときに外国政府からの圧力さえ示唆して自国の自主性を傷つけながら,国債発行を継続した動機はなにか。それは国民経済にも合理的な政策立案にも関係がありませんから,最大の動機は,政治的なものであったと考えられます:日本政府が国債を発行してきた期間の大半において与党であった自由民主党は,増税をして衆議院総選挙で敗れるのを避けるために,国債を発行しつづけた。継続的な国債発行という異常事態を説明できる動機は,それくらいしかありません。つまり,日本政府が 40 年以上にわたって国債を発行しつづけている目的は,自由民主党を与党の座に留めることである,という結論が得られます。

自由民主党が,設立以来今日にいたるまで大半の時期に与党であったことを当然であると思っている人々は,ここで述べられていることが奇妙であると思うかもしれません。しかし,自由民主党は,結党以来,有権者をもてなすことによって多数派の支持を得ようとしてきた政党です。農業が日本のおもな産業のひとつであった時期に,自由民主党による政府は,市場価格以上の対価で農家から米を買いあげて,その損失を税金で補填していました。1955 年の設立から 1970 年代にかけて,自由民主党が国内で推進する政策は,おおむね,旧財閥系諸企業の既得権益を保護し,それと並行して農民を厚遇することを目的としていました。産業構造の転換にともなって都市部の人口が増加するにつれ,国会で過半数を占める自由民主党は,農村部に比較的多くの国会議員を配分し,都市部の税収を農村部に送金して,自党の支持基盤を維持しようと努めました。その一方で,田中角栄など先見の明がある自由民主党員たちは,都市部で支持者を増やそうと苦心しました。しかし,都市部の有権者は組織化(オルグ)されにくく,たとえばぼくが子どものころ住んでいた地域では,衆議院中選挙区の 5 人の定員のうち,自由民主党公認候補で当選するのは 1 人だけであることがふつうでした。もし都市部のこのような傾向が全国に広まったならば,自由民主党は与党の座を維持することができなかったことでしょう。ところが,1980 年代の中曽根政権下で,自由民主党は,いわゆる左側に手を伸ばしました。つまり,自由民主党は,都市部の労働者や住民の利益を代弁することがあると自ら言いはじめ,自民党は(一部の人々に奉仕する党でなく)国民政党であるという新たな看板を掲げました。言いかえれば,それ以前の,旧財閥系諸企業の既得権益を保護し,農民を厚遇する政策からの脱却を図りました。それと同じ時期,1986 年の衆議院総選挙で自由民主党が勝利したので,その政策転換は自由民主党にとって成功であったと評価されることがあります。あるいは,さらに,人々の注目を上部構造だけに集めたがる一部の論者たちは,そのころ都市住民に新保守主義が浸透したことを指摘しがちです。しかし,それらの評価や指摘は,あまりにナイーヴ(無知)であるか,または意図的に誤解を招こうとしている点で悪辣です。目的のために手段を選ばず,それなのにしばしば辛うじて政権を奪いとってきた自由民主党が,1980 年代に有権者をもてなす手をひとつも打たなかったはずがありません。その最大のものが,大平正芳が死亡したのをいいことに,増税を行わなかったこと,あるいは,不十分な増税を行いつつ国債発行を継続したことです。もし鈴木善幸中曽根康弘が,自らの政権下で,財政を均衡化するための増税を行っていたとしたら,自由民主党は 1986 年の総選挙で勝利したでしょうか。もし竹下登が,空前の好景気時に,わずか 3 % でなく,高齢化する日本社会において一部の論者が必要であると指摘した 30 % の消費税を導入し,それとともに国債の償還に着手していたならば,自由民主党はその後も政権に就くことができたでしょうか。いえ,自由民主党は,目前の有権者から相応の税金を取らないという大盤振るまいを続けたにもかかわらず,1993 年の衆議院総選挙で敗北しました。

たとえば平成 30 年度(2018 財政年)に,日本政府は約 34 兆円の国債を新規に発行しました(赤字国債は約 28 兆円,建設国債は約 6 兆円)。そのうち赤字国債を,単純に人口 1 億 3 千万人で割ると,1 人あたり約 21 万円。有権者数 1 億 0 千万人で割ると,1 人あたり約 28 万円。それは本来,平成 29 年度に日本にいる人々が負担しておくべき金額でした。負担額はかならずしも均等でなければならないわけでなく,負担の方法は,直接税,間接税のほか法人税によってもかまいませんが,かりに政府が赤字国債発行を避けるために消費税率を上げるならば,2017 年度の 8 % から 5 ポイント増やして 13 % の消費税率が必要でした。どんな方法であったとしても,かりに来年度から自由民主党(と公明党との連立)政権が増税を行って赤字国債の発行を止めたならば,自由民主党政権はその後も継続するでしょうか。それはだれにもわかりません。継続するかもしれません。しかし,もし継続しないのであれば,そしてその原因が増税であるならば,同様のことは過去にもあてはまることでしょう。もし自由民主党政権が 1980 年代に合理的な増税を行っていたとすると,自由民主党は政権から引きずりおろされていたかもしれません。ということは,自由民主党政権は,そのとき赤字国債を発行することによって,野党に下る危機を回避したと評価できます。もし現在の政府が消費税率を 13 % にすれば与党は次の選挙で敗北するだろうという見通しを立てる人々は,過去の政府について次のように評価しなければなりません:自由民主党は,目前の国民が本来負担すべき金額の一部を将来の国民の負担につけかえることによって,政権を確保した;言いかえれば,自由民主党は,目前の国民に,合法的に「寄附を行う(=本来負担すべき金額を還付する)」ことによって,政権の座に就いてきた。その金額は,現在の貨幣価値で有権者 1 人あたり年間 28 万円ですから,ほぼ 3 年ごとに行われる衆議院総選挙の 1 回ごとに,それは約 84 万円に上ります。それは,もし実際に現金で手渡されるならば,たいていの有権者が言われたとおりに投票するであろう金額です。

もし政府が合理的な財政政策を採っていたならば,1980 年代以降の日本に暮らす人々の可処分所得は,数パーセントだけ少ないはずでした。道路や橋や港の整備は,もうすこし遅れていたことでしょう。では,もしそうだったならば,なにか困ることがあったでしょうか。すこしはあったことでしょう。では,それは,将来の国民に 1000 兆円の負担を残してでも解決すべきことだったでしょうか。そうだったと言えるひとは,ほとんどいないだろうとぼくは思います。

赤字国債の発行残高が毎年増えていることを,まるで自然災害かなにかのように語る人々がいます。彼らは,あまりにナイーヴ(無知)であるか,または意図的に誤解を招こうとしている点で悪辣です。それは,自由民主党が与党でありつづけるために有権者に行った,合法的な「寄附」の合計額であると見なすほうが現実的です。この「寄附」は,日本の政治に退廃をもたらしました。2009 年に民主党は,もし彼らの政党が政権を担当するならば,彼らは自由民主党以上に有権者をもてなすことができると主張して,衆議院総選挙で勝利しました。当時の民主党党首であった鳩山由紀夫の目には,自由民主党が長期政権を維持している最大の原因は税金の安さであると映っていたのでしょうし,自民党に勝つためには有権者をいっそうもてなさなければならないと彼は思ったのでしょう。わずか 40 年ほどの誤った慣行によって,なにが政治であるかを一部の政治家が忘れてしまうほどの退廃が,日本の国会を覆っています。

なにが政治であるのか。利害の対立する人々が話しあって,集団としての意思を決めること,などと辞書に書いてあります。では,設立以来これまでほとんどの時期において政権与党であった自由民主党は,どんな利害にもとづいて,どんな意思決定を行ってきたか。彼らが有権者をもてなしてきたことは,政権を取るための手段でした。その目的はなんだったか。しばしば言われるように,日本にはいわゆる「縦割り行政」の慣行があり,具体的な政策のなかには社会主義的なものも新保守主義的なものもあって,それらのあいだにあまり整合性がありません。それらは,個々の行政官僚によって立案され,実行されているからです。では,官僚でない,自由民主党の政治家は,なにを目的として政治を行っているか。この点についても知られているように,個々の政治家が言うことはさまざまであり,党内の政治家の見解にたいした整合性はありません。自由民主党はかつて農村を支持基盤としていましたが,今日農村に広がる耕作放棄地を見ると,自民党は農村を守りきれなかったとわかります。自由民主党は,旧財閥系諸企業の既得権益を保護しようとしていましたが,政府の意向に沿って原子力部門に重点を置いていた東芝を守りきれませんでした。自由民主党は,冷戦期に,米国側の一派閥として設立されました。たとえ農民を守れなくても,たとえ旧財閥の既得権益を守れなくても,たとえ将来の自国民に莫大な借金を残そうとも,あるいは将来の自国民を過酷なインフレーションのリスクに晒そうとも,自由民主党は,米国の軍事基地が日本国内に必要であるという立場を変えたことがありません。国内に外国軍を駐留させるために赤字国債が発行されているのであれば,政治の退廃は容易に払拭されないでしょう。ぼくはここで,日本は米国の言いなりになっているという単純なことが言いたいわけではありません。また,米国が日本政府の要人を思うままに操っているという素朴な陰謀論を支持したいわけでもありません。ただ,政治家は結果倫理の観点から判断されるので,1980 年以降の自由民主党政権が非合理的な財政政策によって莫大な赤字国債を発行した責任と,国内の外国軍の勢力が一向に減る見込みがないことにたいする責任とは,糺されなければならないとぼくは思います。そして,もしかして両者が関連しているのであれば,自由民主党は,歴史の法廷で不利な立場に追いこまれるだろうと,ぼくは思っています。