「恋人たちのクリスマス」をおすすめするよ

マライア・キャリーねえさんの「恋人たちのクリスマス」(1994)の話をするよ。これは,マライアねえさんの転機になった曲なんだ。

マライアねえさんは,シンデレラになぞらえられたもんだ。すっごく歌がうまかった。おまけに美人。小さいころは苦労したけど,歌手になりたくて歌を録音したテープが大手レコード会社の社長の手に渡ると,ただちにデビュー。そのうえ,社長がプロポーズして結婚したのさ。8 オクターヴの声が出るといわれた美人歌手が一気に大金持ちに。ふつうなら,それがゴールだ。でもマライアねえさんにとってはスタートだったのさ。

栄誉も財産も手にしたマライアねえさんには,言わなきゃいけないことがあった。キティーちゃんが好き,とかさ。黒人の血を引いている,とかね。当時は,カネ持ちで美人の女性歌手は,白人向けの歌をうたうように求められたのさ。もちろんマライアねえさんは,どんな歌だって上手に歌えた。でも,黒人の歌をうたいたかったのさ。

そんなとき,レコード会社の社長がクリスマス・アルバムを作ろうと言いだした。「きよしこの夜」とか「サンタが町にやってくる」をマライアねえさんに歌えっていうんだ,社長が。つまり夫だよ。ずっとむかしには,そういう企画モノがよくあった。でも,マライアねえさんの時代にはすでに,クリスマス・アルバムなんて落ち目の歌手が出すもんだと思われていた。その風潮にさからった社長の気持ちはわかるよ。だってマライアねえさんの歌がすばらしかったんだもの。全世界のみんなはマライアの歌う「サンタが町にやってくる」をきいて大喜びするだろうと社長は思ったんだろうな。

アルバムには数曲だけ新曲が入ることになった。そのうちの一曲が「恋人たちのクリスマス」だ。百円ストアで束で売ってるようなコード進行に,陰影のない打ちこみの音。クリスマス・ソングだから鈴がシャンシャン鳴ってる。これなら社長が油断するよ。全世界のみんなが油断するよ。

だから,マライアねえさんは打ってでたんだ。この曲は,マライアねえさんの「うなり」で始まる。伴奏がほとんどなくて,芯になるメロディーをねえさんが提示する。頭サビってやつだ。歌うまいよね。そりゃそうだ,マライアだもの。とか言ってると,おやおやとおかしなことが起こる。聞きまちがいか。いや。「オール・アイ・ワント・フォー・クリスマス」のあと,全世界の人々が聞きまちがえられない事件が起こる。「イイイイイイイイイイイイイズ,ユウウウウウウウウウー,イェエ」。マライアねえさんが「こぶし」を回している。日本の演歌では「こぶし(小節)」というけど,アメリカではメリスマといって,黒人音楽の特徴だ。マライアねえさんは,この頭サビの部分を黒人として歌ったんだ。

白人の音楽とか黒人の音楽とか,はっきり分けられるのかといったら,それはムリだよ。できないよ。でも一定の傾向はあるわけさ。カントリーは白人が好みがち。ロックもそう。一方,ソウルとかリズム・アンド・ブルーズは黒人が好みがち。その垣根は何度も破れたけど,大まかな配置はあいかわらずだ。だから,黒人にも白人にも歌いかけたかったマイケル・ジャクソンは,ロックともソウルとも名乗らずポップと称した。ホイットニー・ヒューストンの映画『ボディガード』(1992)を見たら,ひとつの歌を,白人が歌うのと黒人が歌うのとでどんだけ違うか痛いほどわかるよ。

企画モノのアルバムの,ありふれた,安っぽい曲の冒頭で,マライアねえさんは力いっぱい黒人の魂を明かしたわけさ。だから,その曲のそこからあとは,とっても陽気なんだ。死んでもいいと思ってたんじゃないかな,ねえさん。栄誉と財産くらい失ってもいいと思ってただろう。ふっきれた。だから,めちゃくちゃ楽しそうに歌ってるんだ。歌の最後の「ユー」は,とんでもない高音で歌ってる。メリスマなし。じゃあ白人音楽かっていうと,そうなんだけど,あんな高い声出る歌手めったにいませんからね。メリスマの「ユウウウウウウウウウー」も高音の「ユー」も両方歌えるのがマライアねえさん。最後の高音は出血大サーヴィスさ。

だから「恋人たちのクリスマス」は,命がけの歌で,楽しいんだよ。クリスマスには,この歌を楽しめばいい。いま言った事情なんか知らなくても楽しいけど,知ってるともっと楽しいよ。

だれもまちがえないと思うけど,マライアねえさんは聖人君子じゃない。この曲のあと,ねえさんはガングロになっていった。音楽の国の王子様こと有馬岳彦氏の言葉を借りるなら,「マライア・キャリー西野妙子になりたがっている」時代があった。ねえさんは,社長と離婚して,いっそう黒人寄りのアルバム『バタフライ』を発表。名作ですよ,これ。でも,ねえさん,太りやすいし,歌いすぎで声が出なくなって,口パクしたらバレちゃった。対人恐怖症みたいになって,なに言ってんのかわかんなくなった時期もあって,ねえさんにとってはもう最悪ですよ。『ザ・ニュー・ヨーク・タイムズ』っていう新聞が,毎月ひとりの著名人に 9 個の質問をして,著名人がそれに絵をかいて答えるっていうコーナーがある。ねえさん,その質問にたいして,音楽が好きという意味でピアノの絵をかいたんだけど,白鍵と黒鍵の数がめちゃくちゃだった。でもその隣の質問で,好きなキャラクターをきかれて,キティーちゃんの絵を正確無比にかいたんだ。心の支えだったんだな,キティーちゃんが。『ザ・ニュー・ヨーク・タイムズ』が著名人に好きなキャラクターをきくことなんか,ねえさん以外にないんですよ。気つかわれてたんですよ,ねえさん。

でもそうしてるうちに一周か二周かして,そんなマライアねえさんのことが好きだっていうひとが案外多いとわかったんだ。だから,ねえさんは昨年(2019 年),こんな動画を配信した。おすすめです。